外務省革新派/戸部良一[中央公論新社:中公新書]

外務省革新派 (中公新書)

外務省革新派 (中公新書)

 こんな事を書くと怒られそうだが、「外務省革新派とは何だったのか」という疑問には、「本書のエピローグに書いてあるように、外務省内における『プレッシャー・グループ』であった」と答えればそれで終わりである。一般的に言われているところの「革新官僚」、つまり軍部と協力して政党ではなく自分たち官僚によって日本を運営していこうとする一派は外務省内にも存在して、そのグループは確かに日本の外交に一定の影響力を与えたが、所詮は陸軍の攻撃的な軍事戦略に追従して攻撃的な外交を唱えていたに過ぎなかった。外交どころか日本政府そのものが陸軍に牛耳られていたのだから、彼らが陸軍と結託することはあっても陸軍をリードすることはなく、外務省に革新派がいなかったら日本の外交は違っていたかというとそうは思えない。しかし「外務省に軍部と結託した革新派がいて、それが日本外交を誤らせた」とは俺も何度か聞いたことがある。一体なぜそのような過大視が長い間続いてきたのかを考察することは非常に大事であろう。
 「15年戦争」と言われる日本の崩壊の序曲は満州事変から始まったが、その満州事変はワシントン体制への挑戦であり、「日米英による協調によって東アジア(特に中国)の秩序を維持する」とするワシントン体制では日本は果実を得られず、ロシアや中国の脅威にも立ち向かうことはできないと感じた関東軍首脳によって満州事変が起こり、やがて満州国が建設されるが、この頃の外務省はまだ米英との関係を考慮した上で満州事変の正当化を図っている。満州事変における日本の行動は「自衛権の発動」であるから不戦条約に違反せず、満州国の成立も中国とは異なる地理的・歴史的背景の下での住民の独立運動であるから九国条約違反にはならない、というのが日本の論理的な説明であって、国際法理的に満州を正当化して米英との関係を損なわないよう外交の継続性を維持しようとする意図が見え、ここではワシントン体制に挑戦的な態度で臨もうとする関東軍とそれに同調する革新官僚の影響はないと言える。
 ところが日中戦争が始まった後の1938年11月に政府が出した「東亜新秩序声明」にはワシントン体制への否定が読み取れる。「この新秩序の建設は日満支三国相携へ、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり」。日中戦争はもはやワシントン体制下の国際情勢では説明できないと外務省は判断したのである。もちろんこれを外務省革新派によるものと断定するのは早計で、革新派は結局最後まで(敗戦まで)外務省の主流ではなかった。しかし時代は陸軍に有利に動き、それに伴って外務省も陸軍に引きずられ、革新派の声ばかりが大きくなっていくのである。
 ドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が勃発し、アメリカが日米通商航海条約の廃棄を求め日米無条約状態になると革新派はアメリカを「帝国の道義外交を侮辱し、東亜新秩序建設計画を妨害せむとし、抗日援蒋政策により支那事変の長期化を計り、徐に帝国の疲弊屈服を予期」していると観察するようになった。革新派が全て対米強硬論者だったわけではないが、もはや悪化した対米関係を打開するには支那事変の解決(=東亜新秩序の建設)しかないと思われた時、欧州情勢は同盟国・ドイツの連戦連勝に沸き立ち、日本は枢軸側へ傾斜することになるが、「外務省革新派」が日本外交にあまり影響力がなかったと言えるのはこの後の松岡洋右外相による「日独伊提携・対アメリカ強硬姿勢」に革新派がほとんど関わっていないからである。親ドイツ・反アメリカというのはなるほど革新派の特徴ではあるが、これらはあくまでも松岡外相と陸軍による功績であった。そして太平洋戦争が始まって陸軍が本格的に日本外交を牛耳るようになると、革新派はもはや「外交」から離れて「理念」や「哲学」を語るようになる。当時の日本の世論も、長期化する支那事変の鬱屈や欧州の激変に対して、革新派の言う「世界新秩序の到来(米英の時代から独伊の時代へ、民主主義から全体主義へ)」という論理の明快さに耳を傾けるようになったが、革新派の代表格とされる白鳥敏夫(駐伊大使、東京裁判ではA級戦犯として起訴)のそれはもはや外交論ではなかった。「今度の戦争は本質に於ては日本の八絋一宇の御皇謨とユダヤの金権世界制覇の野望との正面衝突であり、それは邪神エホバの天照大神に対する反逆であると共に、エホバを戴くユダヤ及びフリーメンソン一味のすめらみことの地上修理固成の天業に対する反逆行為である」。いわゆるトンデモ系に入りそうな文章であるが、第二次近衛内閣の閣議決定「基本国策要綱」もこれとあまり変わらない。「世界は今や歴史的一大転機に散会し、数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の生成を見んとし、皇国又有史以来の大試練に直面するこの秋に当り、真に肇国の大精神に基づく皇国の国是を完遂せんとせば、右世界史的発展の必然的動向を把握して諸政百般に亘り速に根本的刷新を加へ、万難を排して国防国家体制の完成に邁進することを以って刻下喫緊要務とす」。
 歴代の外相に革新派は一人もおらず、松岡外相も主張は革新派と同じであったが注意深く革新派が外交に携わるのを避けていた。では何が外務省革新派を過大視させているかというと白鳥に代表される旺盛な言論活動であると作者は結論付ける。先進国と同じレベルとなった近代国家・日本において、外交はもはやエリートの関心事ではなく大衆世論の注目の的となり、満州事変や支那事変そして太平洋戦争という新たな世界状況と、日増しに強くなるナショナリズムに傾斜して変調する言語空間に外務省革新派は「外交専門家」として登場し、その盛り上がりが「基本国策要綱」のような華美で空疎な言葉の羅列へとつながっていくのである。そして革新派がリードした世論が次第に革新派を超えて過激になり、それに合わせて革新派もまた過激になっていく中で日本は破滅へと向かう。恐ろしい話だが、革新派による「米英の世界支配は終わり、これからは独伊そして日本の時代だ」という主張と、現在の「アメリカの時代は終わり、これからは中国そしてアジアの時代だ」という主張は似ているような気がしないでもない。過去の教訓に学び、どんな状況になってもアメリカとの関係は常に意識しなければならない。それが日本外交の生きる道だ。