おろしや国酔夢譚/井上靖[文藝春秋:文春文庫]

 1782年、まだ江戸幕府体制が磐石であった時代に伊勢から江戸へ米や商品を乗せて出航した船は台風によって北へ北へと流され、カムチャッカ半島・千島列島から更に北東にあるアリョーシャン列島の最南端にあるアムチトカ島に流れ着いた。船に乗っていた大黒屋光太夫ら16人(1人は漂流中に死亡)は下船し、荷物を下ろして原住民やロシアから派せられている役人と意志疎通を図ろうとしている時に船体は無残にも二つに割れた。万事休す。ここがどこかもわからなければロシアという国がいかなる国かもわからない15人は生き抜くことを余儀なくされる。命をいとも簡単に奪っていく極寒の中で1人が命を落とし、また1人が命を落とすという過酷な環境のなかで光太夫らは異人の住む集落に身を寄せ、異人による異国語を覚え命を守っていくのである。ところがロシア帝国では光太夫が漂流するまでに4回ほど日本人の漂流民が流れ着いていて、過去に漂流した日本人をロシア政府は手厚く保護し、日本語学校を開設して漂流民たちに日本語を教えさせていた。世界に冠たるロシア帝国のことであるから日本を植民地化するにしても日本語を習得させなければ話にならないと思ったのかもしれないが、光太夫たちがアムチトカ島に流れ着いた時には既にそれまでの日本人漂流民は全員亡くなっていて、現地のロシア人との間にできた子供だけが残り日本語学校も閉鎖状態であった。そこへやってきた漂流民たちを有効に活用しようと目論むロシア政府によって彼らはアムチトカ島から広大なロシア大陸の中へ中へと護送されるのである。アリョーシャン列島のアムチトカ島からカムチャッカ半島のニジネカムチャック、更にロシア本土のオホーツク、ヤクーツクイルクーツクへと移動し、その度に厳しい寒さと慣れない食事、そしてもちろんストレスも加わって多くの仲間が死ぬ。イルクーツクに着いた時に16人の漂流民たちは6人となっていた。
 やがて光太夫たちはイルクーツクでキリル・ラックスマンという一風変わった人物に出会い、この男は帝室付き鉱物調査官としてイルクーツクのどの役人よりも首都ペテルブルクに顔が利き、この男に請われるままに植物や地質の研究の手伝いや日本地図の作成に協力しているうちに気に入られ、漂流民のリーダーたる光太夫は首都ペテルブルクに来いと言われる。「お前たちが帰国するためには、直接皇帝陛下に嘆願するしか方法はあるまい。陛下にお目にかかるのは容易なことではないが、取り計らってやる」として、異国の一介の庶民である光太夫は女帝・エカチェリーナ二世に謁見、約10年という歳月を経て帰国するのである。
 と、ここまで長々とあらすじを書いたのは本書がただロシア帝国に流れ着いた漂流民の運命をロマン的に書いたものではないからである。光太夫たちは無事ロシアの船によって日本へと送り届けられたが、それは何もロシア側の人道的な計らいではなく、漂流民たちの受け渡しを利用して日本との国交交渉に来たのであった。だが時代はペリー来航の遥か前であり、ロシア側との交渉窓口となった松前藩の役人たちは「国法によって異国からの公文書を受け取ることはできない。外交的なことは長崎以外の地では禁止されている」と繰り返すのみであった(結局ロシア側は長崎入港許可証を手に入れたことで妥協して日本を離れる)。そして日本に帰ってきた光太夫と磯吉は江戸に送られ、将軍に謁見してロシアでの10年に及ぶ苦闘の生活を話した後、鎖国政策に悪影響が及ぶことを恐れた幕府により郷里の伊勢に帰ることは許されず江戸で半幽囚人として終生過ごすこととなったという。しかし光太夫はもっと別の意味で憂鬱な後半生を過ごしたに違いなかった。彼は鎖国下の日本で生まれ育ちながら、数奇な運命を経てロシア大陸、そして首都ペテルブルクや女帝が夏を過ごすツァールスコエ・セロの壮大で華やかで煌びやかな大国の先進的な姿を目の当たりにしてまた日本に帰ってきたのである。日本はロシアに比べ形式的で空々しく、ロシア一行を物々しい人の数で出迎えたが貧しく空疎であった。何事も簡単には行かず、簡単に運べそうな事柄にひどく堅苦しく窮屈な手順を必要としていた。光太夫たちは知ってはいけないものを知ってしまったのである。
 「自分はこの国に生きるためには決して見てはならないものを見て来てしまったのである。アンガラ川を、ネワ川を、アムトチカ島の氷雪を、オホーツクの吹雪を、キリル・ラックスマンを、その書斎を、教会を、教会の鐘を、見晴るかす原始林を、あの豪華な王宮を、宝石で飾られた美しく気高い女帝を、なべて決して見てはならぬものを見てきてしまったのである」と光太夫は思い、しかしこうも思った。「俺はな、俺は、俺はきっと自分の国の人間が見ないものをたんと見たんで、それを持って国へ帰りたかったんだ。あんまり珍しいものを見てしまったんで、それで帰らずには居られなくなったんだな。見れば見るほど国へ帰りたくなったんだな。思えば、俺たちはこの国の人が見ないものをずいぶんたくさん見た。そして帰ってきた」。
 決して理解されぬであろう異国での体験を抱え、日本という国の小ささを感じながらその後の人生を送らざるを得なかった光太夫の姿は「哀切漂うロマン」というよりも「大いなる悲劇」だが、実はインターネットで世界中がつながっているかのように見える現代においても通用するのではないか。だからこそ読んでいる間、胸が締めつけられるような思いをしたのであろう。