ぼくたちの好きな戦争/小林信彦[新潮社:新潮文庫]

ぼくたちの好きな戦争 (新潮文庫)

ぼくたちの好きな戦争 (新潮文庫)

 読み進めるうちに、何となくおかしくなってくる。笑ってみたくなる。しかしそれは「面白い」から笑ってみたくなるのではない。もっと曖昧模糊とした、言葉にできない「何か」がおかしいから次第に笑いがこみ上げてくるが、それは快活な笑いではない。しかし陰気な笑いではない。ニヒルな笑いでもない。戦争によって今までの日常が変わり非日常の世界に突入したとしても我々の意識はなお「日常」にとらわれているから、非日常の世界で困惑し狼狽する登場人物達が滑稽なのだ。作中に「人生は出来の悪い映画のようだ」という言葉が出てくるが、まさに「戦争は出来の悪い喜劇のようだ」であって、芝居小屋の喜劇俳優が兵士を慰問するなど悪い冗談でしかないし、マレーシアの日本軍の部隊長が饅頭商売に手を出して大儲けするなど阿呆らしいし、「金魚は爆弾除けになる」からと言って金魚で商売をするに至ってはブラックユーモアにもなりはしない。ところが本人達は滑稽とは思っていない。大真面目なのだ。それがまた変におかしい。
 極めつけはアメリカ海軍少尉による架空戦記小説で、「ガソリンがないので、ミカドのマークのついた人力車が」「シントーの習慣であるところのカシワデを打ち鳴らす」「五重塔型の空港」「日本人の魂、<禅爆弾(ゼン・ボム)>じゃ」「リトル・トージョー」「料理における武士道的部分」等の抱腹絶倒な世界が展開されるが、なぜこれが二章立てで、それも結構な長さで挿入されているのかわからない。しかし面白い。戦争の真っ只中にいるアメリカ軍少尉が考えたにしては出来過ぎている。しかし面白い。おかげで戦場の凄惨な、というより地獄のような光景も「喜劇」の一場面にしか思えなくなってくる。海には死んだ兵士達の切断された頭や胴体が浮き、波に洗われている死体の群れは解剖室でしかお目にかかれないばらばらの肉塊となった。機関銃の鋭い音が響いて、隣にいた兵士の肉が飛び散り、首を奇妙な形に曲げ、血と肉片がこびりついた。「神道によって狂信化したジャップ」は死に物狂いの攻撃を仕掛けてくる。
――こちら司令部。珊瑚礁で何が起こったか報告せよ。どうぞ。
――話にならねえ。片っぱしからジャップの機雷にやられて吹っ飛んでいくぜ。どうぞ。
――それでは報告にならない。機雷はあっても、日本兵はいないのではないか。どうぞ。
――莫迦言っちゃいけねえ。迫撃砲をぶっ放してるぜ。どうぞ。
――下品な言葉は使わないように。もっと冷静な報告を頼む。どうぞ。
――勝ち目はねえ。引き返していいか。どうぞ。
――引き返していいという指令は出ていない。どうぞ。
――どうしたらいい?動けねえんだ。どうぞ。
――では、動かないようにして、後の命令を待て。どうぞ。
――皆、死んじまうぜ。どうぞ。
――死なないように。どうぞ。
 戦争の現実がギャグを超える、だが戦争は終わらない。次第に「喜劇」と「悲劇」の境目が曖昧になってくる。人の死があちこちに出てきて感覚が麻痺してくるのだ。「悲劇」とは人の死に繋がる事で成り立っているが、死が重みを持たなくなった戦場ではもはや全てがギャグに成り得る。しかし唐突に戦場の場面は遮断され、昭和20年の焼け野原の東京が映し出される。勝利に酔っていた過去は遠く、新聞は「白兵戦闘と格闘」の心得として「(敵と)格闘になつたら『みづおち』を突くか、睾丸を蹴る。いかに鬼畜といへども人間だ、指で眼球をゑぐり出せば、もう大丈夫」と書く。どっちが鬼畜だ。更に「新型爆弾の防御方法」として「白い着物は熱線から受ける火傷を確実に防ぐ。下着も白い方がよい」とも書く。もはや滅茶苦茶となった東京だが地下鉄は動き、浅草では芝居や映画がまだ生き残っている。酒場も存在している(ただし、つまみは手で食べる。もう割箸がないからだ)。そして日本が負け、アメリカによる占領が始まることを知らされた男は「(敗戦後の)大衆はどんな本を読みたがるのか」とふと考える。徹底した実用書だろうか。「米会話必習一週間」とか…。
 また唐突に舞台が変わり、裏日本の田舎町で少年は苦しみつつ夢想しつつエンディングを迎える。結局この戦争は何だったのか少年にはわからない。死んでいった友達の事を想いながら、「輝かしい幕開きからなし崩しの後退に至るまで」のこの戦争を記録していきたいと願う。おかしな戦争、滑稽な戦争、喜劇の戦争、悲劇の戦争、そのどれもが当てはまるようでどこか違うような、本当の意味で「おかしな戦争」は、もうすぐ終わろうとしている。戦争が終わればどうなるのだろうか?いや、戦争が終わっても、「出来の悪い喜劇」は終わらない気がする。それが「出来の悪い喜劇」たる所以なのだ。