フランス現代史/渡邊啓貴[中央公論社:中公新書]

フランス現代史―英雄の時代から保革共存へ (中公新書)

フランス現代史―英雄の時代から保革共存へ (中公新書)

 フランスは栄光ある偉大な国であり、常に国際政治を動かしてきた。フランス人自身がそう思うのだからそうなのだろう(皮肉ではない)。しかし日本人が国際政治を知ろうと思うならまずアメリカ、次いでロシア・中国・韓国・北朝鮮の歴史を勉強するのであって、欧州各国はその物理的距離もあってなかなか知る機会がない。しかし日本を除いた時の世界の歴史のほとんどはヨーロッパが舞台であり、複雑な利害が絡み合う中で巧みに生き抜いてきたフランスの政治・外交史を知ることは今後の日本政治・国際政治を読み解く上で非常に有益である。
 フランスの現代史、つまり第二次世界大戦後より1998年(本書刊行年)までのフランスは基本的にそれぞれの大統領の個性によって大別できる。とは言え「ドゴール時代」「ミッテラン時代」「シラク時代」のそれぞれが、アメリカ大統領やソ連共産党書記長のような「強力なリーダーシップを持った指導者」の時代であると結論付けるのは早計でもある。「理想と現実主義の巧みな使い分けは、複雑な欧州の歴史の渦の中で生き抜いてきたフランスの知恵である」と作者も言っているように、表向きは強力な権限を持った大統領こそがフランスを率いるが、その強大な権限を暴走させまいとする議会と議会多数派によって選出される首相は時に大統領と鋭く対立し、それでも「外交は大統領、内政は首相」という棲み分け(コアビタシオン)によってフランス政治は「フランス国民の倦むことのない試行錯誤」によって運営されてきた。それは政府と議会が一体となっている日本にとっては想像以上にもどかしく、困難なものであるが、そこに「フランスの栄光」を一途に求め続けるフランスの姿をはっきりと見ることができる。
 「ドゴール時代」とは言うまでもなく親ナチス政権と戦いフランスを解放に導いたシャルル・ドゴール将軍の時代で、「祖国愛と同時に、フランスと自分の運命を一蓮托生と見る傲岸さを精神構造の要とした」この英雄は英雄であると同時に極度の政党嫌いであった。パリ解放の熱狂冷めやらぬ1944年9月9日に臨時政府の首相となったドゴールは議会・政党と対立して1946年1月20日には辞任、その後社会党共産党・MRP(人民共和運動)による三党政治を中心にして第四共和制の幕が上がるが、この時代は比例代表制により与党の議席数は安定せず、首相はメリーゴーランドのように矢継ぎ早に変わることとなった(12年続いた第4共和制下で最も長かった内閣の期間は16ヶ月)。
 また1950年代に起こったインドシナ戦争スエズ動乱、そしてアルジェリア紛争によって明らかになったのはフランスが植民地時代の支配意識をまだ引きずっているという事であり、フランス帝国の時代はもはや過去の栄光にすぎないという現実を直視しようとしないフランス人の姿であった。特にアルジェリア問題をめぐって政府は混乱の果てに右傾化し、世論も強硬策を支持して「国民的痙攣」状態となった。地中海を挟んで本国とアルジェリア植民地政府の二つの政府が対立するという危機の中で第二次世界大戦の英雄・ドゴールは再び表舞台に立つ。「ドゴール時代」の本格的な始まりであり、ドゴール内閣発足からわずか3ヶ月後に国民投票によって新憲法が承認され、今日まで続く第五共和制が成立する。ドゴールが目指した第五共和制の政治とは「『国家的大問題』に関する決定は大統領の権限に属する『専管領域』であり、防衛・外交・アルジェリア問題などの領域で大統領の独断専行は是とする」政治であった。ドゴールは専門家や顧問らを周辺で重用し、彼らの方が閣僚を監視することになった。首相とは大統領の言いなりになる人物だと考え、大統領と首相の二頭政治を嫌い、議会を通してではなく、国民と国家元首は直接的な信頼関係で結びつくと考えた。議会多数派が議会召集を要請しても平然と拒否した。1964年1月の記者会見で彼自身がこう語っている。「国民に選出された国家元首は国家の源であり、所有者である。国家の不可分の権威は全て人民が選んだ大統領に委ねられたのであり、一切の他の人々には存しない」。
 だがフランスは「理想と現実主義の巧みな使い分け」を基本とする。1968年の「5月危機」も乗り切ったドゴールだが、徐々にフランス国民は彼を「頑迷な老大統領」と思うようになり、国民投票に敗れたドゴールは1969年4月に辞任、そしてやって来た70年代は高度経済成長の終焉と共に先行きの見えない不安定な状況となっていた。先進産業社会でありながら経済状況も失業率も改善されず、ドゴール大統領の志を継いだ「ポスト・ドゴール」の面々が有効な手立てを打てない中、1981年の大統領選挙では社会党ミッテランが選ばれる。70年代の苦境からの脱出を社会主義政権に託した「ミッテラン時代」が始まるが、ミッテランは終生「反ドゴール」であった。「国内でレジスタンス運動の重要な一翼を担ったという自負が、フランス解放の英雄を一身に体現しているドゴールへの反感となった」と作者は書いているが、その政治スタイルも確かにドゴール的なものとは違うものであった。第一に、ミッテラン社会主義者というわけではなく、変幻自在な現実感覚のある政治家であった。就任直後こそ社会党らしく、サッチャリズムレーガノミクスの「小さな政府」とは対照的な「大きな政府」の実験を次々と行ったが、効果が出ないとわかるや1年後には緊縮政策へ転換、社会党(左翼)でありながら「小さな政府」路線を進めるという矛盾に左翼の政策論争は不調となって1986年の議会総選挙では右翼が勝利し、「首相は右翼・大統領は左翼」という「コアビタシオン」が発生するが、1988年の大統領選では「社会正義」「平等」などのムードを巧みに醸し出すことで再選を果たすのである。
 社会党政権自体が路線変更しているのならば「コアビタシオン」にフランス国民は不安を感じない。左右の政策が接近し、政策の対立が不鮮明になる中で1993年の総選挙におい社会党は壊滅的敗北を喫し、1995年の大統領選挙では右翼(保守派)のシラク大統領が誕生、「シラク時代」へと移行するが、長期社会主義政権への飽きと二回の首相経験のあるシラクが支持されたとしても、ミッテラン大統領の時のような大きな期待と興奮はない。政党は分立し、極右が一定の地位を保つようになるのである…。
 というわけでキリがないのでこのへんで終わりますが、このようにフランス国内では様々な試行錯誤がある一方で外交においては「フランスの偉大さ」を(試行錯誤ではあるが)一貫して求めているのもフランス現代史の特徴の一つであろう。もちろんこれはドゴールによって始められたものであるが、米国のヘゲモニーに挑戦し、「防衛面での独立」「欧州統合におけるフランスの国家主権の優先」「米ソ超大国間の均衡外交」「フランスの栄光の追求」等は「反ドゴール」のミッテランにも受け継がれ、核実験を強行したシラクにも受け継がれている。今度は本書のようなフランス政治の概略的なことが書かれた本ではなく、フランス外交史について詳細に研究した本を読んでここに書くことにしよう。