政治家やめます。 ある国会議員の十年間/小林照幸[角川書店:角川文庫]

 常々言っているように政治家は聖人君子ではない。高い学歴を持ち頭が良く、能力があり(何の能力かはわからない)、資産もそれなりに持っているが、所詮は血と涙が通った普通の人間であり、朝昼晩と飯を食べトイレに行き性欲もあり、何かとややこしい浮世で周囲に気を遣いながら生きざるを得ない普通の人間である。ところが日本のマスコミは政治家を「聖人君子であらねばならない」と書き、それなのに「権力を振りかざし、金にモノを言わせ、うまい汁を吸っている」人間として描きたがり、少なからぬ国民がそんな政治家を叩くことに快感を感じている。
 また政治の世界は修羅の巷である。選挙となれば今日の味方が明日の敵となり、その逆もありえる。「政策の実現のため」「政治の安定のため」には今までお世話になった人や支えてくれた人と戦わなければならず、大嫌いな人間や今まで見下してきた人間ともにっこり笑って握手しなければならないのだから、平凡に波風立たせずに生きてきた人間には想像もできない世界である。そのような修羅場をくぐり抜けた人間だけが利害渦巻く人間社会と謀略が渦巻く国際社会に立ち向かっていくことができるのであるが、マスコミは政治に「庶民感覚」を求める。「庶民にわかりやすい政治を」「『政治と金』は庶民感覚で、クリーンに」と言う。
 そして日本では政治家は「票を与えるかわりに、顎で使っていい存在」「後援会を通じての、選挙区での冠婚葬祭や各種催しの出席は当然、支持者の子弟の就職等の世話は当然、旅行や飲食の提供は当然」と思われている。政治家には「利害が渦巻く人間社会と謀略が渦巻く国際社会に立ち向かう」ために永田町周辺で活躍してもらわなければならないのだが、もし地元での日常活動を怠れば「ずいぶん偉くなられて。俺たちが当選させてやったのに」「あの先生は冷たい。面倒見が悪い」「そんなことでは国民に支持されないぞ」と恨みを買ってしまうので、選挙区に貼りついてひたすら選挙活動に忙殺されてしまうのである。もちろん「選挙区のことは何もわからない」、ただ頭がいいだけの人間が政治家になるのも困るが、ほとんどの政治家は投票してもらうためにひたすらサービスを提供するのであり、大抵の政治家志望者はこの現実を見て政治家になるのをあきらめるのである。
 その点、政治家の二世というのは有利である。政治家である親やその親が作った後援会のベテラン達が日常活動について手取り足取り教えてくれる。やるべきこと、やっても無駄なことを心得ているし、「どうすれば有権者にかっこよく映るか」ということまで指導してくれる。長い間後援会で活動している人の中には無償でデスクワークやゴーストライターを引き受けてくれる人もいる。何より「子供に跡を継がせます」と言えばそれだけで周囲は納得する。親は安堵し、後援会の人間はやる気になり、党本部・支部もその方が金も手間もかからないことを知っているので歓迎する。しかし当の本人が「マスコミに叩かれても平気で、修羅場を渡り歩くことができて、選挙区での日常活動を苦もなくやれる」人間だとは限らないし、大抵の政治家は「政治みたいな修羅の世界はうちの息子には無理だ」「こんなしんどい商売、息子には継がせないぞ」と思う。ところが60歳になり70歳になって、気力・体力が衰えて、後援会や党から「そろそろ後継者のことも考えて…」と言われると「やはり後継者は倅に」「俺が心血注いで作ったこの後援会を他人に渡すわけにはいかん」となる。二世本人にも老い先短い親の気持ちはよくわかるし、周りも期待している事がよくわかる。それによほど政治を毛嫌いしていればともかく、普通の人間ならば「やはりお父さんの跡は息子であるあなたが」「あなたしかいない」と言われ続ければ断ることはできない。そのようにして世襲議員が出来上がる。「政治家に向いていない」性格の人間が成り行きで政治家になるのである。
 前置きが長くなったが、本書は「政治家に向いていない」性格の人間が政治家になってひたすら戦い続けた記録である。と言っても政敵や官僚組織や諸外国と華々しく戦ったわけではない。久野忠治という、第二次田中角栄内閣で郵政大臣を務めた以外は特に目立った功績もなかった政治家の長男・久野統一郎は50歳を過ぎて父の跡を継いで政治の世界へ足を踏み入れるのであるが、「国を憂い、国を良くしようという高い志」も「自分が(政治を)やらなくて誰がやるのだという情熱」もなかった。ただ真面目に仕事をして生きてきた人間が、父や周囲の人間に外堀を埋められる形でやむなく衆議院議員選挙に立候補し政治家になったのであり、なったが最後、政治家であり続ける(当選し続ける)ために地元の日常活動に忙殺され、高度な政治の世界(自民党竹下派小渕派に所属)に翻弄され、敵と味方が入れ乱れる選挙の世界で神経をすり減らしながらも何とか生きていくために戦ったのである。地元の有力者や支持者には常に笑顔を繕って挨拶して、支持者との懇親会や旅行を行って彼らの歓心を買う。そして選挙戦ともなればひたすら頭を下げるものだから犬や猫や電柱にまで条件反射的に頭を下げるようになる。そこまで努力しても県議選や市長選では自分の選挙を応援してくれた人同士が対立することもあり、その調整に失敗すれば双方から恨みを買い、次の選挙で落選するのではないかと不安が募る。
 国会では委員会・本会議の議事録が毎日配られるが、選挙区からの来客の対応や派閥の会合などでとてもそれらを読む暇はない。「普通の人による普通の人のための政治」を目指したが、やはり政治はそんな生易しいものではなかったのだ。どんな時でも笑顔で、言いたいことは言えず、思っていることと違うことを言わざるを得ない環境の中で次第にこの二世政治家は追い詰められ、「政治家に向いていないから辞めます」と宣言してこれで解放されるかと思いきや、それでも「後継者はどうするんだ」となじられ最後の最後までもがき苦しみながら戦うのであった。
 政治とは抽象的に言えば「国民の生命と生活を守る」ためのものであるが、「そのために国民から預かった莫大な税金を使う権力行為」である。そこに魑魅魍魎の群れが跋扈する。とても「庶民感覚」が通用する世界ではない。ところがマスコミはその現実から目を背けて建前だけの正義感を振りかざし、久野氏のように神経をすり減らす人間が後を絶たない。そうして日本の政治は日々費消されていくのである。ではどうすべきかと言うと「庶民感覚」を誇大に宣伝するのをやめるしかないのだが、さて、そんな日が来るのだろうか…。