海がきこえる2 アイがあるから/氷室冴子[徳間書店:徳間文庫]

海がきこえる〈2〉アイがあるから (徳間文庫)

海がきこえる〈2〉アイがあるから (徳間文庫)

 さて本作の前編である「1」の感想をこのブログに書いたのは2010年8月の27歳の夏であったが、一番最初に読んだのは16歳の春であった。16歳という多感(且つ滅茶苦茶)な時期に読んだ思い出深い本を27歳になって再び読み、何とも懐かしい優しい気持ちになって穏やかに感想を書き上げ、そう言えば「2」もあるのか、生きていたらいずれ読んでみたいなあ…と思って幾歳月、無事に「2」を読むことができた。「1」の直後から始まる本作は高知の田舎から大学進学のため上京してきた主人公が東京で夏から冬を過ごすというもので、東京の大学を舞台に周りにいるヒロインや先輩や友人を起点として厄介事が起こることになり、その厄介事を通して主人公は大人へのほろ苦い階段を上っていく…わけであるが、それを読んで俺がまた「懐かしい優しい気持ち」になったかと言えばそうではない。何と言っても俺はもう31歳(もうすぐ32歳)で、彼らは20歳前後の若者なのだ。感情移入するなら主人公たち若者ではなくヒロインの父親の再婚相手や主人公の先輩(女)の交際相手の男(妻子持ち)に感情移入する方が自然なのであり、しかしそれではこの小説の構図自体がおかしくなってしまうので何とかこの愛すべき主人公(「主人公君て、面白いわね。拍子抜けするっていうか。壁に向かって話してるみたいで、ぜんぜん手応えないのね」「すみません…」)と同一化すべく試みたものの、試みれば試みるほど「こっちはいつ馘になるかビクビクしながら毎日を過ごしとる駄目サラリーマンなんじゃ、何やお前らは爽やかに青春しやがって」と理由なき反抗心が邪魔してどうにもならなかった。何なんだこの主人公は。美人なヒロインといい感じなくせに別の美人な大学の先輩と仲良く話したりしよって。そんでまたいい友人に恵まれよって。俺の大学時代なんて女と一言も話せなかったし友達も一人もできなかったっちゅうねんボケが。全く、長生きはするもんではないですな。
 と、本書について言いたいことはそれだけだが(何だそれは)、それはそれとしていい小説であった(何を言っとるんだ何を)。まだ気分は高校生なままの田舎育ちの主人公が華やかな都会で渦巻く濃密な人間関係(不倫や親の再婚相手の妊娠)に関わり合いを持たされ、成す術もなく茫然と立ちつくし、「悪人は一人もいないのに、何かがこじれてしまって、もうどうにもならない」という大人の世界を肌で感じ、何か行動を起こそうとしてもどう起こしていいかわからず、もがこうとしてももがき方すらわからないというじれったさが強くもなく弱くもなく淡々と描かれ、読者としてはああ俺がこの状況にあっても主人公と同じようにただ立ちつくすだけだろうなあと自然と受け入れることができよう。そしてそのように受け入れることができるのは主人公による一人称モノローグが絶妙だからで、その語りは東京という都会が持つ華やかさと気だるさを表現し、きれいごとではない大人の「苦さ」を驚きと憧れをもって表現できている。だから受け入れる事ができるのである。
 繰り返すが、「海がきこえる」とは「懐かしい優しい物語」である。そして優しさとは、ヒロインの言うようにアイである。この物語に関係する人たち(登場人物、作者、読者)には、アイがあるのだ。
 
 どこかの店から流れてくる「ホワイトクリスマス」は耳に優しく、とても懐かしく感じられた。
 こんなにいい曲だったのかと感動するほどだった。なぜ今まで名曲だと思わなかったのだろう。
 だぶん、それはこんな夜に映画を一人で立ち見で見るか、二人で見るかの違いだ。二人だから立ち見でも許せるのだ。
 できあいの曲が耳に優しく聞こえるのは、僕以外の人がそばにいて、僕といることを楽しんでいるからだ。それが僕を楽しませて、耳も、目も喜ばせているのだ。だから街の色も音も全てが優しく思えてくる。この夜はそのためにあると思えてくる。
 僕らは色とりどりの灯が揺れて滲む街中に、昔は海の底だった場所に、手をつないで歩きだした。