負の連鎖

 「休むならば大いに休む」と啖呵を切ったからには1年か1年半は休むつもりであったが、何人かの方から「参議院選挙があったのに何も言わないのはさすがにどうなんだ」と言われ、それもそうやなあ何か書かないかんかなあと思いつつも相変わらず仕事その他のくだらない事に付き合わされて2ヶ月が経ってしまった。生きていると色々あるのです。しかしながらしばらく目の前の政局から離れていたおかげでより「政局」が見えるようになった…気がしているので書くことにする。
 参議院選挙では安倍首相が遊説先の福島で「ねじれが解消しないと復興もスピーディに進まない」と述べて、その発言に対してマスコミも国民も特に疑問に感じなかったようだが、俺は首を傾げざるを得なかった。「復興をスピーディに進める」ことに与野党のねじれ(対立)などないはずで、「復興をスピーディに進める」ための政策について意見の対立があるのなら話し合えばいいだけであろう(最も俺は「政策より政局」ですが、ややこしいので省略)。とにかく悪いのは「ねじれ」で、なぜなら「ねじれ」のせいで面倒臭い与野党協議をしなければならないからで、だからその「ねじれ」を解消するために「復興」が使われたというひどい話なのだが、反発があるどころかそれがさも当然に受け入れられていたので、今はマスコミも国民も自民党参院選で勝つことを望んでいるということがよくわかった。
 思えば4年前の政権交代の時も同じようなものだった。小泉改革による「痛み」に耐えられなくなった国民は民主党が政治経験に未熟である事は百も承知で「国民の生活が第一」な行政府に作り変えることを希望して政権を交代させたが、その結果がどうだったかはご承知の通りである。今はその「国民の生活が第一」が「アベノミクス」へと変わったが、では「アベノミクス」が国民の期待通り花開いて日本経済が蘇る可能性はかなり低いと見るのが自然である。なぜなら官僚が予算を作り行政府の実権を握っているというこの国の根本は変わっていないからである。
 4年前の政権交代は明治以来の官僚支配の体制を作り変える千載一遇のチャンスであった。官僚が積み上げてきた予算を政治家が形式上承認するのではなく、国民から選ばれた政治家が予算を配分しながらも行政実務を担う官僚に睨みを利かせるという民主主義本来の国に生まれ変わる挑戦は、しかし無残な敗北に終わった。民主党で唯一「権力の奥」を知っていた小沢一郎を政府から排除し党の幹事長にとどめたからである。そして官僚、業界団体、マスコミと対決する事を恐れた「小沢抜き民主党」政府は「事業仕分け」というパフォーマンスでお茶を濁し、財源を生み出せないためにマニフェストを撤回し、国民の反発から逃げるために次第に官僚に頼るようになった。財務省の悲願であった消費税に奔走する民主党の姿に「国民の生活が第一」の看板を見て投票した国民はその裏切りに震え、怒りを超えた憎悪となった。その憎悪は去年12月の総選挙だけでは消えないほどの憎悪であり、それが参議院の「ねじれ」の解消へとつながる。「ねじれ」がなくなればかつて権力を謳歌した民主党はただの濡れ犬となる。「国民を裏切った罪を思い知れ」という加虐心が日本全体を支配していた。
 だから衆議院参議院で連勝した自民党を見て「これで自民党の時代に戻った」「安倍政権は安泰」と言っているのを聞くと驚いてしまう。過剰な期待が過剰な罰へとつながった目の前の光景に気付いていないばかりか、これからの自民党政権運営は順風満帆だと根拠もなく思っているようであるが、本当の戦いはこれから始まるのである。消費税、原発、TPP、憲法と問題は山積みであるが、それに対して今後どう取り組んでいくのかという戦略は全くなく、昨年12月からひたすら「衆参で過半数を確保」することだけに特化して、規制緩和を唱えながら公共事業を増やせと要求する、鵺のような政策を大真面目に言ってきた人間達に何ができるのか。与野党の「ねじれ」が終われば次は与党内の「ねじれ」が待っている。そこでかつての小泉のようにひたすら与党内の反対勢力と戦うふりをするのであればともかく、そうでなければ与党内で際限ない妥協を繰り返し、過剰な期待を抱いた国民から怒りの声を浴び、また官僚の浅知恵に逃げ込むことになるだろう。この負の連鎖を何としてでも止めなればならない。それが「政局好色」を再開するにあたって俺が最も言いたい事である。
 とは言うものの、次回の更新はいつになるかは未定です。