指名解雇・辞令 高杉良経済小説全集(2)[角川書店]

高杉良経済小説全集 (2)

高杉良経済小説全集 (2)

 サラリーマンは別に奴隷というわけではない。会社のやり方や上司の命令が気に食わなければ辞めればいいだけの話で、誰もそれを止めることはできない。もっと給料が良くて働きやすいところに行けばいいだけの話である。しかしながら現実はそうはいかない。妻子がいる身で冒険はできないし、辞めてすぐに転職できるかどうか疑わしい。そのため時には奴隷のように、屈辱的なことも我慢して嘆き悲しみながら仕事に励まなければならない。それがサラリーマンである。
 ところで「資本の論理」などと大層なことを言うまでもなく株式会社大企業も所詮は株を多く持っている者の言うことを聞かざるを得ない。平成グローバル時代の現在では株と言うとM&Aをイメージするが、その昔は「創業者一族」というのが幅を利かせていて(今でもそういう会社はあるが)、大株主である創業者一族が経営に口を出し、役員に創業者の息子や親戚などを送り込んで社員の士気を低下させていたらしい(今でもあるな)。そうすると神ならぬ人の世界であるから創業者一族にゴマする者、利用してライバルを蹴落とす者などが現れ、社内は混乱し相互不信が跋扈する。それでもとても退職には踏み切れないから何とかしてこの会社を立て直そうと奮起を促す社員もいるが、よほどのことがない限り大株主(創業者一族)様には逆らえない。本書ではそんなサラリーマンの苦悩の日々が描かれていて、サラリーマンとして胸に応えた。
 最初の長編「指名解雇」では「日本的経営」「会社全体が家族のような温かい社風」と評されていた会社が管理職の人間を指名して退職をせまり、それがマスコミに洩れて日本中に衝撃を与え社内も引っくり返った騒ぎになるというものであるが、ここでも創業者の子供(社長・副社長)による強引なトップダウン、社員の気持ちを考えない手荒な手法に反発する主人公もいれば率先して便乗しようという者もいて会社全体がバラバラになる様子が生々しく描写されている。特にこのようなやり方に断固反対しようとする主人公と、主人公と一緒になって反対すれば今度は自分たちが指名解雇されるかもしれないと怯える管理職の沈鬱なやり取りは胸にせまる。本来なら最後の最後の手段である人員削減を易々と行おうとする経営者と社員の間には大きな溝ができ、とは言え抗議して辞職するわけにもいかないのだから社員の士気の低下は計り知れない。結局主人公は抗議をこめて辞職するわけだが、それもほとんど効果はないだろうと寂しく去ってゆくのであり、まさに組織を前にして個人など無力であることを突きつけられた気がした。
 次の長編「辞令」でもやはり問題となるのは創業者一族の介入であって、会長夫人が息子を部長にしたいばかりに部長昇進目前であった主人公は突如勝手知らぬ部署へ異動させられてしまうのである。成績優秀な主人公を異動させるために取り巻きは主人公の些細な醜聞を拡大解釈し、主人公は必死の抵抗を試みるも一度流された醜聞は瞬く間に社内を駆け巡り味方なしとなった主人公はただ辞令を受け入れるしかない。次第に新たな部署での仕事にも慣れ、創業者一族にもはっきりと物言うことができる理解ある上司(役員)のお墨付きを得て今度こそ部長の座に就くかと思われたが今度はその上司と共にまた違う部署への異動を命じる辞令を受け取る…。それもまた創業者一族のアンフェアな人事の結果なのであるが、もはやこのまま会社にいても未来はあるか、大会社にいればやはり安泰なのだろうが男と生まれたからには冒険すべきではないかと思いながら終幕を迎えるところが何とも憎たらしい。サラリーマンというのは折に触れ「このまま組織に属するか、それとも飛び出るか」迷っているのであるから、そういう我々の姿とほとんど同じ姿を最後に持ってきたところに作者のテクニックの巧さがある。
 それにしても一昔前のサラリーマン小説を読んでいると、やはり昔のサラリーマンは出世欲があったのだなと感心してしまう。今は俺の会社でもそうだが皆出世など望んでいない。このグローバル経済の激しい競争社会にあって誰も責任あるポストに就きたくないのだ。その点昔は気楽なものだから部長になれなくてふて腐れたり役員に口利きをしてもらおうとして牧歌的でさえある。やはり今の時代にサラリーマンなどやっていても意味がないかもしれない。本書にもあるように、「寄らば大樹の陰」か、それとも「人間到るところに青山あり」か、いや「去る者は日々に疎し」か…。