もてない男/小谷野敦[筑摩書房:ちくま新書]

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

 どうして「もてない男」は「もてない」から劣等感を感じてしまうのかと言うと、世の中で一番素晴らしいものは恋愛なのに、その恋愛に手を触れることすらできないからだ。街を歩けば彼氏彼女や夫婦たちがこの世の春とばかりにいちゃいちゃいちゃいちゃしているのが嫌でも目に入る。またセックスというそれはそれはもう気持ちよくて素晴らしいものがあって、それを当たり前のように毎晩ヤっている奴らが大勢いるというのにこちらは一人で慰めるか2万ぐらいの金で相手を買うことしかできず(そして風俗嬢というのは大体において平均以下である)、何とも情けない気持ちに沈む。更に現代においては「見合い結婚」というのはほぼありえないから自力で恋愛して相手を見つけなければならず、もてない男は当然相手が見つからず恋愛ができず、死ぬまで独身で過ごすことになる。自分よりアホで、金がなくて、チャラチャラした服装して、アメリカの首都がニューヨークと思っているような奴らが美人な女をはべらして日夜セックスの快楽を享受しているというのに、俺は何だ。ああ、辛い。切実に恋愛がしたい。そして美人で可愛くて胸がでかい女とヤりまくりたい。しかしそれはほぼ不可能なのだ。ああ、辛い…というもてない男の渇きを本書が癒してくれるかと言うとそんなことはない。本書は「もてない男」(定義:好きな女性から相手にしてもらえない)である作者が、「もてない」とはそもそもどういう事で、大体「恋愛」とは何だ、と考えるエッセイであって、時々学術的な用語を使うことによってやや品のある愚痴となっているが、それでも愚痴は愚痴であり万人に勧められるものではないが、俺は愚痴を言うのも人の愚痴を聞くのも好きなので満足であった。
 そもそも「もてない」という概念がこれほどまでに広がり、多くの男たちが劣等感と屈辱で枕を涙で濡らすようになったのはなぜか。それは「近代」社会になったからである。近代化とは即ち西欧化であり、吉原などで「金で女を買うこと」は罪悪とされ、妾を持つことも恥ずべきこととされた。代わりに導入されたのが「ロマンチック・ラブ」もしくは「オンリーユー・フォーエバー」で、要するに「恋愛相手=セックスの相手=妻」ということであるが、そうは言ってもそう都合よく女が見つかるわけがなく、そこから「恋愛に憧れながらそれが叶わず、売春という手段によってしか女を知ることができず、近代的な理想のために自分自身に向かってそれを恥じなければならない」という苦悩が始まるのである(志賀直哉の「暗夜行路」に既にその描写がある)。もてない男というのは「性的弱者」ではなく「恋愛弱者」なのであって、「実際に買春していても虚しさに苦しむ」のはそういうことである。加えて高度経済成長の終焉後の現代社会には「孤独」(無縁社会)という問題が重くのしかかってくる。俺もそうだが、皆「友達がいない」のであり、それがまた「もてない」という劣等感を加速させる。結局もてない男の増大は「成熟社会」の結果なのである。
 近代になってからの「恋愛教」の勢いはすさまじく、排他的な新興宗教のように「恋愛のできないものは不健全だ」という考えは完全に現代人のDNAにまで染み込んでしまった。そこでやるべきことはセックスに対する期待と「愛」という言葉への再構築であろう、と作者は言う。近代は「妻=ただ一人のセックスの相手」という考えを普遍的とすることに成功したが、多くの人々のイメージするセックスとは「性器と性器の結合」に過ぎず、そこには「安心」がなく「性器の衰弱への怯え」だけがある。もてない男がなぜ劣等感を感じるのかというと「女(売春ではない普通の女)とセックスができない」からであるが、セックスの悦びは個人差が大きいのであり、セックスを「自分のかつて知らない凄い快楽をもたらすのではないか」と幻想することこそ問題なのだ。「愛」についても同様のことが言えて、例えば障害を持った子供を夫婦で協力しながら育てていくというような、困難を協力して克服していく「愛」の方が、性器と性器を結合させることばかり強調する「愛」よりよっぽど近代的で人間的なはずであり、本当はそういう事を目指すべきなのである。だが「恋愛教」は何しろ現代人のDNAに染み込んでいるのだからどうしようもない。もてない男の苦悩は続くのである。
 「恋人がいてセックスしているのは当たり前」な世の中でもてない男はどうすべきか、まずは本書を読んで参考にしようと思ったが、作者は「女の友だちならいる」らしい(それどころか「私だって友だちじゃない」とまで言われるらしい)のであまり参考にならんか。俺なんか女友だちなんてこの世に生を享けてまだ一度もできたことがないからね。まあ俺は「本当に、救いがたく、容姿とか性格のために女にまるで相手にしてもらえない男」であるから仕方ないか。もてない男の戦いは続くのだ。