どこまで続くヌカルミぞ 老老介護奮戦記/俵孝太郎[文藝春秋:文春新書]

 「介護」とは、一般的に言って痴呆や重病を患った両親を子供たちが面倒を見ることであろう。仕事や家事で忙殺されている生活の中で生活能力のない老人を引き取って面倒を見なければならないのは経済的・物理的・精神的に耐え難い苦痛であるが、だからと言って老人ホームに入れるのも何となく後ろめたいし、大体老人ホームは今やどこも満杯である。俺も親を持つ子としてそろそろ将来のことも考えないとなあと思って本書を読んだのだが、この本はそういう趣きの本ではなかった。本書はとにかく無責任でワガママな両親や妹たちへのボヤキ、愚痴、罵倒によって成り立っている恐るべき本であった。本書のサブタイトルは「奮戦記」であるが、「不満記」「憤怒記」と言った方がいいのではないか。
 作者の両親は痴呆や重病を患っているわけではない。しかしやはり彼らは年金以外の収入もなく身体も弱りきって生活能力も低下していつ倒れてもおかしくない老人なのだからと作者は自分達の家の近くに老人二人が生活できるだけの家を買うわけであるが、齢80をとっくに過ぎた両親はその家のために1円も出していないというのに領有権と管轄権を要求し、表札が気に入らんだの家内(作者の妻)に私達は年寄りなんだからもっと世話をしろだの金よこせだのと言ってひたすら作者夫婦を困らせるのである。両親は「老人は社会的弱者である」というイメージを利用してひたすらサービスを要求し、超高齢者であるから厳しく糾弾されることもなく出て行けと放り出されることもないと計算して何もかもを要求する「非行老人」であった(と作者は断言する)。そして既に還暦を過ぎた子供(高齢者)が、そのような厄介な「超高齢者」の面倒を見なければならなくなった時、ふと出た言葉が本書のタイトルである「どこまで続くヌカルミぞ」なのである。
 我らは神ならぬ身であるから、やはり年老いた親の面倒を見るのははっきり言って嫌である(他家へ嫁いだり年頃の子供がいては尚更である)。それでも放っておくわけにはいかないので誰かが貧乏くじを引き(「貧乏くじ」という言い方がここでは最も正しいと思う)、それでも成人した子供たちの間では「誰が親の介護費用を負担するのか」「今まで親が残してきた金はどうするのか」「親の介護に1円も出していないのに無責任なことばかり言うな」となって口論は果てしなく続き、家族同士の話し合いとなれば当事者以外誰も口出しできず見栄も外聞もないものだから醜き骨肉の争いとなる。介護費用も全額負担して自分の家の近くに住まいまで用意した作者夫婦に妹たちは従うしかないが、それでもふて腐れ全く関係のないことを持ち出して(「一番可愛がられたのだから面倒を見るのは当然」「兄妹でただ一人学費を出してもらった」)自分たちが何もしないことの後ろめたさを必死で取り繕い、年老いた父母は「老人は死ねということか」「自分たちは迷惑なのか」と弱者の恫喝によって条件を少しでも有利にしようとするのである。これが高齢化社会の姿なのだ。
 それにしても作者の近親憎悪的感情はものすごく、「大正バブル世代である私の両親はもっぱら享楽的・消費的で、額に汗して働くのは他人がすることで、金は稼ぐものではなく使うものとしか思わなかった」「彼らの拠りどころは親の経歴であり資産であって、自分達には努力しなくても高い消費への要求を満たす生活が保証されているのだ、保証されてしかるべきだ、という世の中に対して不遜極まる考え方が、ついに抜けなかった」らしい。作者はこのような人たちを「元祖・新人類」であると言っているが、作者自身が言っているように家族の問題と言うのは極度に個別的なので読む方としてもそれを真に受けるわけにはいかない。ただ目を丸くしてこの無責任な老人達とそれに対する作者の「ボヤキ」を読み進めるのみである。そして読みながら、老人になるというのはこうも醜いことなのかと暗澹たる気持ちになっていると、更に極めつきの言葉がこの母親の口から語られる。あまりにも不平不満を鳴らす母親に家内は「一体何がそんなに不満なのか、その不満の根源はどこにあるのか」と問い質すと、母親はこう答えた。「テレビを見ていても、みんな若くて、きれいで、リッチで、楽しそうに遊んでいる。しかし自分は歳を取ってしまって、何の楽しみもない。テレビを見ていると、自分が哀れで情けなくなってくる。とても、満足なんかしていられる気分ではない」。
 この世迷言のような母親の言葉に対して作者は政治評論家らしく「東洋の精神文化が大事にしていた老成や隠遁の価値が、戦後のアメリカ的消費文明の礼賛によって失われ、経済成長と人口増加によって大衆文化が若々しく活き活きとしたものにならざるを得なかった」ことによる戦後日本の末路だと解説しているが、80を過ぎてもうすぐ90になろうとしている老婆がまだ若さや美しさや快楽を求めようとする姿には慄然としよう。これが高齢化社会なのだ。
 本書の最後の方にはこの「介護戦争」への対応策が提示されているが(親の資産を自動的に兄妹・子に相続させるのではなく、介護をした者にも相続できるようにして相続と扶養・介護をめぐる公平性を確保すべき)、それはほんの付け足しに過ぎない。本書は徹頭徹尾、困った両親たちを持った作者夫婦の「ボヤキ」によってできている。そしてその「ボヤキ」こそ、神ならぬ身である我々に介護とは何か(作者にとって「介護」とは「どこまで続くヌカルミぞ」であった)をこれ以上ないインパクトで教えてくれるのである。
  
 母親の葬儀の終わりに、喪主として会葬者に挨拶した私は、母親の生涯はついに子供のままで終わった、と述べた。何も老いて子供に還ったのではない。ワガママで、自己中心的で、周囲の都合や気持ちなどまったく歯牙にもかけないで、自分勝手な要求を押し通そうとする駄々っ子の姿のまま、90年半を送ったのである。このためご会葬いただいた多くの方々にも少なからぬご迷惑をおかけしたが、身近にいて最大の被害を蒙った私達に免じてお許し願いたい、と結んだ。