かわいそうな真弓さん/西村ツチカ[徳間書店:RYU COMICS]

かわいそうな真弓さん(リュウコミックス)

かわいそうな真弓さん(リュウコミックス)

 本書を読了してまず思い浮かんだ単語は「透明感」であり「不思議」であり「メルヘン」であり、若干の「不気味さ」であった。また時々不自然に曲がって描かれる登場人物たちは人であって人でないような浮遊感を持った存在として映り、読後には奇妙な印象を与える。そのため読む方としてはもう一度読み返さないと落ち着かないが、再度読んでみると読後の印象が全く違うものになる。「透明」であるはずのものが非常に濁ったものになり、「不思議」なストーリーは計算された俗物的なものとなり、「メルヘン」は下品な冗談のようにも思える。本書のそれぞれの短編が持つこの二面性はどこから来ているのか。全ての短編に溢れる、無意識下に訴える独特の世界から来ているのではないか。
 例えば夢というものがある。夢は無意識下にある自分が自分に見せる世界であり、それは時に意識下の常識が通用しない不思議な世界となるが、それを「不思議」と思うのは起きてその夢を思い返した時であって、夢を見ている時は不思議とは思わない。本作の諸短編を読むとその「夢を見ている感覚」を思い起こさせる。だから読む度に不思議と感じたり、そんなに不思議でもないように感じたりするのである。浮遊感のある登場人物たちがそれに拍車をかけ、スクリーントーンよりも黒と白を使って表現される背景(もしくは「空白」による景色)やその他の風景は夢の持つ「現実感」(この言葉自体が矛盾するが、感覚的にはこう言うしかない)を際立たせる。そしてやや唐突で残酷な風味のあるラストは夢から急に醒めた時のあの感覚に似ていよう。更にこの漫画の登場人物たちはそのような突飛な世界と読者の橋渡し役として、「突飛な世界」の世界観を壊さないギリギリの範囲で機能させている。そのバランス感覚がこういうサブカル系(もう死語ですか?)の作品を読む時に感じる苦痛を中和している。
 特に表題作「かわいそうな真弓さん」はそのような読者の無意識に訴える作品性と、「突飛な世界」の橋渡し役としての登場人物のバランス感覚が両立して非常に興味深かった。「お婆さんから少女へと徐々に若返っていく」という設定自体は特に目新しいものではないが、この「真弓さん」は自由自在・天衣無縫・融通無碍とは別次元の、まさに夢のようなごちゃごちゃとした世界をそのまま体現しているような不思議な存在として描かれ(その影響を受けて主人公や主人公の母も時々意味不明の存在となる)、それは夢のようであるために不思議な存在であって不思議な存在ではない。むしろもう一つの、我々が意識している常識の世界とは違うもっと混沌とした世界の常識で行動しているかのような錯覚に読者は陥ってしまう。それは「真弓さん」を始めとした登場人物たちがあまり作りこまれていないから、というよりも登場人物たちの存在の根拠が「無意識下の状態」に拠っているからであろう。作者は人間たちを描く時に使うべきパワーすらもこの不思議な世界全体を描くことに注いでいて、結果として書き手の無意識と読み手の無意識はその迸るパワーゆえにどこかでつながることになった。つまり成功したのである。その上で終盤の、読みようによってはこれ以上ないくらい不気味な盛り上がりは夢から放り出された時の安堵と喪失感を思わせ、より一層の余韻をもって我々に迫ってくるのである。漫画でこのような読書体験をするというのはなかなかないのではないか。
 というわけで作者には今後もこのような独自の世界観を持った漫画を描いてほしいが、まあ、いつかはラブコメっぽいものも描いてほしいというのが正直なところです。