私にとっての20世紀−付 最後のメッセージ/加藤周一[岩波書店:岩波現代文庫]

私にとっての二〇世紀―付 最後のメッセージ (岩波現代文庫)

私にとっての二〇世紀―付 最後のメッセージ (岩波現代文庫)

 その昔、と言っても俺が高校生の時であるから10年ほど前のことであるが、その頃の俺は「知識人」に対して漠然と憧れを抱いていた。日本や世界の文化的・思想的な知識をもって現在あるいは未来の日本人はかくあるべしという風に発信する姿に颯爽としたものを感じ、一時期小説を読まず漫画も読まずひたすら評論や哲学の本を乱読していた時期があった。もちろんまだ社会経験もなく学問的知識もない小僧が読むわけであるから何となくわかっているようで実は全然わかっていなかったのだが、その頃(確か2001年の1月頃)に本書の岩波書店単行本版を図書館で借りて読み、それからずっと買おう買おうと思いながらもなかなか買う機会がないまま作者は既にこの世を去ってしまった。
 本書は「知の巨人」とまで言われる作者の20世紀論であり、そのテーマは戦前論・戦後論から「20世紀の壮大な実験」と言われた社会主義、または冷戦後の日本の危機的状況等多岐に渡る。そのいずれもが平易な言葉で噛んで含めるように説明しているので大変読みやすく面白いが、それだけに後半の「小林秀雄」的知識人への批判は激烈で、はじめて読んだ時も今回再び読んだ時も結局この部分の印象があまりに強過ぎてそれ以外の文章が霞んでしまったほどであった。
 小林秀雄は主観主義者であったという。主観主義とは「焼物とか絵の見方でもジーッと見ていて、その時の勘で『これはよろしい』『これはニセモノだ』とか決める」というものであり、実際にそれがどういうものであるかについては関心がなくただ自分の心の中で「素晴らしいものに出会った」と思い喜ぶことが最高の瞬間なのだと考える事である。当然そんなことばかりしていると心の外にある世界については関心がなくなり、それぞれの与えられた瞬間にいかに生きるかという訓練された名人芸(作者曰く「名人の気合いみたいなもの」)に深く入っていく。小林秀雄はそういう意味では大変危険であり、そのような主観的な体験の擁護が日本文化の擁護となって体制批判能力を欠いた文化ナショナリズムに至ったのは当然過ぎる帰結であった。
 主観主義こそまさに日本人的な感覚であって、60年代末の大学紛争において機動隊等と衝突した学生が「バリケードの中の生き甲斐」と言ったのは教室で退屈な授業を聞くよりはバリケードの中で抵抗するほうが生き甲斐を感じられるからその方がいいというただそれだけであって、実際に大学をどう変え社会をどう変えるかについてはほとんど関心がなかった。そもそも機動隊に攻められたらやられてしまうことは誰が考えてもわかることで、それでもバリケードの中に入っていたのはただその方が「生き甲斐を感じられる」からであった。或いは2ちゃんねる等で罵詈雑言を書き連ねるのはただ日常に鬱積する不平不満をどこかで発散したいからとりあえず書き込むのであって、罵倒できればその対象自身についてはどうでもいいのである。要は自分が気持ちよければいい。日本人はそのようにして20世紀・21世紀を生きてきたのであり、それを変えなければならないというのが作者の長い「知識人」生活の一貫した主張である。
 特に冷戦後、9・11後、インターネットとグローバル社会の到来による世界は閉塞感に満ちていて、作者はその閉塞感に大いなる危機を感じながらも主観主義に陥るのではなく客観的な事実認識から始めなければならないと強く訴えてこの世を去った。俺は20世紀を駆け抜けたこの「知識人」の、遺言とも言える静かな語りの中に何かを見出さなければならないと強く感じている。
   
 秋葉原で連続殺傷事件があったり、最近各地で無差別に人を傷つけるという事件が頻発してますけど、そのへんは、そういう時代の雰囲気(閉塞感が蔓延している)と関係があるんでしょうか。
加藤 関係があると思いますね。実際に殺すのは、特殊な人たちだけどね。しかし、殺すように彼らを招いた力というのは、誰それとか先生とか、本とか思想とかというものではなくて、もっと漠然とした定義しがたい閉塞感だと思うんです。働いたって、それ以上になるはずがない。それに満足できない人が大通りに突然出ることはある。秋葉原の人なんかの心理を、私はよく分からないところがありますが、ただ天から降ってきたような気がしない。やはり淀んでいたものが急に爆発したと。小さな絶望的な爆発ですね。
 そうした状況にあって、私たちはどういうところに、未来に対する希望を見出せるでしょうか。
加藤 それは、できるだけ人の考えをよく聞き、しかし、なるほどそうかでおしまいにするのではなく、なんとか人間らしさを世界の中に再生させることを意識しなければならない。実際そういうものとして意識して戦うわけですが、戦う前になんだか分からないものと戦うわけにはいかないから、何が相手なのか、敵なのかを理解することが大事。それは広い意味で思想的な教育の問題ですね。だから、著作業にもし効果があるとすれば、少しでも、どんなに少しでも思想的影響を及ぼすということが大事。
 それでその思想は、第一部は事実認識です。それをはっきり理解しなければならないです。何が起こっているのかということを。それが、私が思想と言っているものです。だから第一部は、感覚的な事実の収集とその整理です。整理するにも、どうしようかという考えがすでに必要になる。人間的感情や空想というものの混在した一種の人間的感覚による世界の解釈の仕方ですね。
 こういうふうに事実はなっている。だからそうですかではなく、それはけしからんじゃないかと怒るとすれば、それは感情的反応であって、知的事実に関する反応じゃないですね。だから事実を知らなければどうにもしようがない。正確に知ること。だからタブーを作ったり、嘘を言っていたのでは駄目だ。本当の事を言わなければどうにもしようがない。本当の事が言えて初めてどうしようかということが真面目に問題になるんでね。