4 バカヤロー解散(10→1)

第10位:つゆだくめしべ/朝森瑞季竹書房:BAMBOO COMICS]

つゆだくめしべ (バンブーコミックス VITAMAN SELECT)

つゆだくめしべ (バンブーコミックス VITAMAN SELECT)

 しつこいようだがラブコメとは「モてない男の願望漫画」である。だからと言って馬鹿にしてはいけない。それは今まで戦ってきた俺や諸君が明日も戦うための栄養剤なのだ。とはいうものの一人の男に三人も五人も女が群がるというのは絵空事すぎて白々しいし、何度も言うように快楽的な処理のための道具である成年漫画ではないのだからもっとハートフルなものが必要となる。そこで「ひょんな事から出会った男女が…」として展開されるのが通常であって、「雨のなか捨て犬が濡れているからと言って傘を差し出して自分はずぶ濡れでそれを見たヒロインが…」などという愚かな描写をしてはならない。そんなことをすればただの阿呆に成り下がるだけだ。
 しかしながらラブコメである以上「都合の良い展開」でなければならず、その陳腐さによってこちらも阿呆に成り下がる危険性があろう。幼い頃結婚の約束をした許婚や幼い頃結婚の約束をした宇宙人ならともかく、通常であれば平凡で地味な主人公に突然美人がアタックすることなどありえないわけで、更には強引なエロ攻撃を突きつけられても白々しいだけである。それらを払拭するために読者の度肝を抜くようなエロエロで変態なヒロインにする、ということも作戦としてはありえようが、本作のように「全く面識のない男(主人公)と女(ヒロイン)が出会い」、「当初はお互いどう喋っていいのかわからない」という流れを踏んだ上で愛の告白→性交渉へと至るのが最も困難であると同時に最も成功する道なのである。本作ではその作業を特にスピードを感じさせることなく20ページ程度の短編の中で難なくこなしており、もはや職人技である。
 ラブコメにおいてなぜ「好き好き大好き主人公」ヒロインが求められるかと言うとそうではないヒロインと主人公を対峙させるとどうしても気まずい雰囲気が漂い、快楽へと導く機運すら逸してしまうからである。だが本作の場合気まずさを感じさせながらもそれを最小限に抑え、その気まずさが形になる前にヒロインが「主人公(読者)に好意を抱いている」と読者にわからせることで非常に読みやすくなっている。素晴らしい職人芸であり、本作こそ「エロではなく、非エロでもない」竹書房レーベルの王道作品と言えるだろう。
  
第9位:気弱なボクの最強交渉術!/谷原誠・浜名湖アキラ・岡本一広メディアファクトリー:MFコミックスCFシリーズ]
気弱なボクの最強交渉術! (MFコミックス)

気弱なボクの最強交渉術! (MFコミックス)

 ラブコメとは「平凡で地味な青年」、つまり「仕事においてもいまいちパッとしない青年」を主人公にして美人のヒロインを絡ませ、人類を滅亡から救う鍵を握るのはあなただという壮大なものである(あくまで「鍵を握る」のであって、「救う」わけではない)。まあそれは大げさだが、「仕事においてもいまいちパッとしない青年」を用意して、美人なヒロインがやってきて、その青年が立派なビジネスマンになるというサクセス・ストーリーにすれば更に読者の共感を得られるはずだがそういう作品はあまりない。「ラブコメ」と「サクセス・ストーリー」のどちらも心得ている人間がいないからだろうが、勿体無いことだ。何度も言うがラブコメとは女に振り回されて殴られて満足するマゾ漫画ではなく、主人公が社会的に出世して(あるいは社会的に出世したヒロインの伴侶となって)女を煙に巻くものなのである。
 そして本作は「気弱なボク」な主人公を突如会社の交渉専門役に抜擢して交渉術とは何か、交渉術をいかにして身につけるかというハウトゥーものであり、諸君おわかりのようにはっきりと「気弱な主人公」と銘打っている時点でラブコメ的に勝ちなのである。もちろん気弱でありながら女には平気で声をかけたり妙に善人ぶったり雨のなか捨て犬が濡れているからと言って傘を差し出して自分はずぶ濡れであればどうしようもないが、本作では登場時まさに気弱なヘタレ野郎として描かれた主人公が少しずつだが着実に交渉人として成長し、その成長の様子が地味に描かれているのが好感が持てよう。またこのような「主人公のサクセス・ストーリー」をメインとするならば当然ラブコメ展開はほんの付け足し程度になるが、いつの間にかヒロインがほのかに他の女に対して嫉妬することで結果的に「ラブコメ」と「サクセス・ストーリー」のどちらの要件も満たしていることになっているのも心憎いものがある。
 一見するとラブコメとは何の関係のないようであっても実はラブコメだという例は多い(2002年7位「奇病連盟」、2005年11位「青空の街」など)。それを発掘することが世界のラブコメ王である俺に課せられた使命である、と思ったりします。
   
第8位:ひめごと/堀多磊音秋田書店ヤングチャンピオン烈コミックス]
ひめごと (ヤングチャンピオン烈コミックス)

ひめごと (ヤングチャンピオン烈コミックス)

 本作は主人公の都合などお構いなくやってくる「押しかけ女房もの」に分類されるであろうが、それよりは主人公巻き込まれ型ラブコメ」というのが正確である。浪人の主人公なら手が空いているだろうと亡くなった曽祖父(の弟)の屋敷の家へ管理人として住もうとしたら理不尽にも「物の怪」ヒロインが群がってくるわけであるが、この物の怪ヒロインが「主人公の掌で愛でてもらわないと」いかんとかで夜の間ずっと主人公にまとわりつくのであり(物の怪だから昼は出てこない)、主人公は浪人生でありながらろくに勉強できないので迷惑千万もいいところであるが、この作者(2007年11位「神ぷろ。」の作者)の描くキャラクターはとにかく丸っこく(下手をすると二頭身になりかねない)愛らしく、その丸さが人懐っこさを伴って描かれているので不思議と怒りが湧いてこない(ただしワガママ人形娘とツンデレ巫女はかなり嫌な感じ。この2人のせいで1位を逃したと言っても過言ではない)。またその愛らしさや人懐っこさを悪用しない(「かわいい顔して金に汚い」「かわいい顔して毒舌」など)ことも好感度を上げている。
 そして「巻き込まれ型」の場合に気をつけなければならないのはいかにして主人公とヒロインを結びつけるかであって、マゾではないのだから生活のリズムを乱されて「トホホ…」で済ますわけにもいかず、かと言って雨のなか捨て犬が濡れているからと言って傘を差し出して自分はずぶ濡れなどという阿呆な主人公にするわけにもいかない。その点本作では常に対立と和解、不安と安堵を描くことによって主人公とヒロインの繋がりを意識させるだけでなく、あくまで主人公を物の怪ヒロインとは別の存在として対峙させることで読者に自然と作品世界に没頭させることに成功している。またこの作品世界では平凡で地味で普通な主人公こそが「異質の存在」であり、だからこそ目の前に起こる事件にその「異質さ(=平凡で地味で普通)」を維持しながら事件に対処することができ、それが「普通の主人公が普通でない事件に巻き込まれながら決してスーパーマンにはならない」というラブコメ展開になって読者は主人公の驚愕と同じ驚愕を味わうことができるのである。ついついこの丸っこく愛らしいキャラクターに目を奪われそうになるが、本作はラブコメとしての構成がかなりしっかりしている。だからこそツンデレやレズや触手といった悪い冗談に走ったことが惜しまれよう。もしもっと真面目に、また主人公対物の怪ヒロインの対立と和解を適度に続けていたら1位となっていただろう。残念なことだ。
   
第7位:日々是…/かがみふみを少年画報社:YCコミックス]
日々是… (ヤングコミックコミックス)

日々是… (ヤングコミックコミックス)

 ラブコメは「平凡で地味な主人公が美人なヒロインに追いかけまわされる」だけではない。「平凡で地味な主人公が美人なヒロインと結婚して吐きたくなるような甘い夫婦生活を送る」ことも立派なラブコメである。しかしラブラブカップルとは通常新婚のことで、同棲カップルだと少し違和感がある。やはり社会的に認められた形態である「夫婦」には誰にも後ろ指をさされない安心感があるが、「同棲」だとそうもいかないからであろう。一つ屋根の下で暮らして毎晩のようにヤッても夫婦ではないのだからいつ別れるかわからない危険性を抱えておるのであって、その不安定さが快楽の土壌となって更にいやらしい快楽を生むこともあるがそうなってくるとコメディ色が限りなく薄くなるのであまり楽しめない。ところが本作ではそのような「同棲」のイメージを払拭するように明るく楽しく甘く描写され、最後は結婚までは行かないまでもそれぞれの親への挨拶までは済ませることでほぼ夫婦ものと同じ安心感を与えているところが特色である。
 作者は成年漫画においてもその甘ったるさには定評があったが(2005年4位「だいすき」・5位「かわいいね」)、一般漫画である本作においては性交渉に限定されず同棲生活そのものを甘さで包むことに成功している。とはいえ「甘さ」一辺倒ではなく苦さや時々起こる小さな諍いや結婚という人生の大事業を前にしての戸惑いや困惑も描き、それによって甘さを減少させるどころかより同棲生活全体を愛おしいものとして表現できているところが素晴らしい。ただしそのようなものを詰め込み過ぎて性交渉に関するお互いの快楽の返答については上っ面をなでたものに過ぎなくなっているのが少し不満ではある。カップルの絆が深まれば深まるほどそれは性交渉において表出するはずであり、夫婦ならば性交渉は半ば義務として描かれるが同棲カップルならば更に燃え上がるものになるはずなのだ。まあ1巻完結でそこまで要求するのは酷かもしれないが。
 繰り返すが「夫婦」という形態には何物にも揺らぐことのない強さがあり、それ故よほどのことがない限りほとんどを笑いに転化できるが、「同棲」ではそれほどの強い絆は感じられず、お互い妙に気を遣うという風に読む側も身構えてしまうが、本作は「同棲」という後ろめたさを最小限に抑えてなお甘さを描こうとした点で非常に稀有であり名作であると言えよう。
 
第6位:おくさん/大井昌和少年画報社:YKコミックス]
おくさん 1 (ヤングキングコミックス)

おくさん 1 (ヤングキングコミックス)

 そして本作においてやはり「夫婦」というものは強いなあと再認識した。またラブコメは好いた惚れたに拘泥されない、もっと自由なものであるとも確信できた。特に本作においては意図はわからぬが旦那(だーさん)は後ろ姿しか描かれず、ほぼ全編がこの「おくさん」一人で動いているだけなのであるが、その1コマ1コマ全てが夫への愛情に溢れており、それがこのキャラクターに性的でありながら健康的な魅力を与えているのである。これは日本一のラブコメの座を不動のものとしている「ふたりエッチ」にもできない芸当で、夫を登場させず妻の独壇場でありながらその行動様式は常に夫によって左右されることで夫(男)の立場を絶対的なものにしながら、それが決して「支配/非支配」ではなく愛情をもって感じられるのは二人が夫婦だからである。常に主人公(夫)がヒロイン(妻)を征服するのがラブコメの理想であるが、それでいてそこに淫靡な関係が入り込む隙間のないことで他の「夫婦ものラブコメ」(「ふたりエッチ」を含む)にない迫力を生み出していると言えよう。
 本来「ラブコメ」とは刺激的なものでなければならず、エロいものでなければならない。そのため形式的にせよ既に刺激的なものを終えた「夫婦」による物語は特異でありラブコメと矛盾するものを孕んでいる(あの「ふたりエッチ」でさえ次々と新しいキャラクターを登場させて夫婦に小さな波風を立たそうとしている)。だが本作の「強烈な安心感」とも言える迫力と、それでいて微笑ましい夫婦の生活を描いたものは立派なラブコメである。なぜなら通常のラブコメが主人公とヒロインのゴールイン(多くの場合それは結婚となる)で終わるのに対して本作はそのゴールインのその後を描いたような夫婦関係であり、刺激的なものを終えながらなお刺激的なものが底流に静かに流れている(それは「強烈な安心感」となる)。そのような高度な技が長く続くわけがないが、本作では夫が後ろ姿しか描かれず直接の存在感が消されることによって「底流に静かに流れる刺激」を最小限にしか消費しないよう施されているのである(もちろん作者は無意識にやっているのだろうが)。夫が後ろ姿しか描かれないような作品を1位に持っていくわけにはいかずこの順位となったが、何度も言うようにその特殊な技法ゆえに本作は「夫婦もの」としては「ふたりエッチ」と対等となれる(総合的なラブコメ評価では「ふたりエッチ」の圧勝であるが)ほどの素晴らしい作品である。
  
第5位:アマガミ−Various Artists−[エンターブレインマジキューコミックス]
アマガミ Various Artists(3) (マジキューコミックス)

アマガミ Various Artists(3) (マジキューコミックス)

 当初は誰もが予想したように俺も本作を「キミキス(2007年10位)の二番煎じ」でしかないだろうと大して期待はしていなかったが、何と5位となった。「キミキス」の場合アニメによるサポートがほとんど絶望的だったのに対して「アマガミ」の場合むしろアニメが大変良かったのでこの順位となったが、日本ラブコメ大賞は基本的に書籍に与えられるものなのでアンソロジー版を受賞の対象にしている。とはいえ元はギャルゲーであるから漫画として論じてもあまり意味がない。今から論じるのはゲーム・アニメ・漫画全てを内包した「アマガミ」というメディアについてである。
 さてラブコメは「平凡で地味な主人公」に美人なヒロインが擦り寄ってくるわけであるから、当然そのヒロインは魅力的なキャラクターでなければならない。そこで「魅力的なキャラクター」とは何かということになるが、かわいくて美人でスタイルがいい(それでいて胸が大きい)女など吐いて捨てるほどいるし、平凡で地味で何のとりえもない主人公に優しくしてくれる女も吐いて捨てるほどはいないが多い。その中で本作のキャラクターが飛び抜けて魅力的なのは「ギャルゲー」の強みと弱みを正確に把握しているからである。などと言うと余計わからなくなるが、本作はもちろん「エロゲー」ではなく、また「エロゲー」的な安易な作りをきっぱりと拒絶しているからこそ独自の魅力を引き出しているのである。
 そうなると今度は「エロゲー」とは何かという話になってしまうが、エロゲーとは結末が見える物語である。要は性交渉、もしくは性交渉に極めて近い刺激的なものを出していかに「ギャルゲー」を「エロゲー」に近づけるかが昨今のギャルゲーであるが、「アマガミ」はそうではない。幾多のギャルゲーが「エロゲー」に倣って結末を見せてしまおうとして自らの地位を低下させたのに対して、「アマガミ」は結末を明示せず、しかしながらそれが逆に世界を広がらせる効果を生み、だからこそキャラクターが活きているのである。性交渉云々などラブコメの文法から言えば二次的なものでしかないことにちゃんと気付いているのだ。
 またヒロインの一人に「仮面優等生」なる奇怪な性格を与えたことも評価したい。その他はボーイッシュ系後輩、おとなしめ系後輩、不思議系先輩、幼馴染、悪友と珍しいものではないが、ここに「仮面優等生」という、読者側としては即座に判断できないようなヒロインを置くことで物語全体に緊張感を与えている。ギャルゲーでここまで深いラブコメができるとは正直思わなかった。手放しで賞賛させてもらおう。
 薫は俺の嫁、と言いたいところだが、梨穂子も可愛いなあ。
   
第4位:あした天気になァれ/はしもとてつじ[久保書店:ワールドコミックス]

 天下のAmazon様、楽天様が本作を用意していないとはどういうことか。全く腹が立つが、本作は昭和の漫画である。昭和54年発行でありどこからどう見ても昭和の漫画である。携帯電話もインターネットもないなどという次元ではない。まだ「オタク」という概念もなく、大っぴらにラブコメだエロ漫画だと言えなかった時代の漫画であり、背表紙には「青春ロマン」と書かれている。もちろんいつの時代にもラブコメ的なものは存在するが(明治時代の小説「三四郎」もラブコメと言えばラブコメである)、本作は「ラブコメ」という言葉を公にすることはまだ認められなかった時代のラブコメでありながら平成22年の俺や諸君が読んでも違和感はないだろうと4位に持ってきたのであります。
 本作の主人公もヒロインも大学受験を控えた高校3年生であり、その2人が交際を続けながら進学という人生の階段を登るわけであるが、その男女交際とは実に健全で控えめな抑制された男女交際であり(性交渉など考えられない。接吻だけでもエロいぐらいだ)、その控えめで抑制された空間がふとした時に破られようとする際の緊張感は並大抵のものではない。またこの時代の女たちは平成22年現在のように女が普通に大学に行って肌の露出の多い服装で平気で闊歩できるような生き方をしていないから「暗い」と言えば「暗い」が(ヒロインとは別に「母子家庭だから大学には行かず母がやっているスナックを手伝う」女が出てくるが、それが何とも妖艶な感じ)、その暗さがもし性的なものに転換されたらと想像した時の妖しさは筆舌に尽くし難い。
 しかしこうなると月並みだが昔と今のどっちがいいのかよくわからない。健全で健康的な交際をする主人公とヒロインはあらゆるエロ情報が容易に手に入る平成22年現在では絶対に手に入れることのできない爽やかさとほのかな幸福感と微妙なエロ(男が女を見る時に感じる根源的ななまめかしさ)を自然に漂わせているのであり、また多くの女性が「平凡に結婚して、平凡な家庭を築くこと」を当然と考えていた時代であるから二人の静かで穏やかで少し波乱がある平凡な交際が邪推なく(「都合がよすぎる」「素直すぎる」などと思うことなく)読むことができよう。今の時代に「健全な交際」などと謳っても裏に何かあると邪推せざるを得ないが、彼らに表裏などは考えられない。彼らは我々から見ればあまりにも知らなさ過ぎ、我々は彼らから見ればあまりにも知り過ぎてしまったのかもしれないが、そんなことを言ったところで俺は今の時代に生きるしかないのであるからこの古き良き時代のラブコメを堪能して今のラブコメを堪能しようではないかと思うのである。
 
第3位:Bite!グリーンを狙え/高橋功一郎角川書店:角川コミックス・エース]
 しつこいようだが大事なことなので何度も言うが主人公は平凡でなければならず、平凡より下ならばなお良い。駄目であれば駄目であるほど良い。とは言えこの場合の「平凡より下」というのはあくまで「運動能力が平凡より下」なのであって、運動能力以外であれば何か一つ二つ特技があっても問題はない(のび太でさえ射撃を得意としている)し、読者に「平凡以下の主人公ができるのなら、俺にもできる」と思わせられる(つまり勇気を与えることができる)ならむしろ積極的にそのような特技を与えるのもラブコメの一つの方法であろう。それが本作で言うところのゴルフの「パット」で、「パットにパワーや運動神経はいらない、自分なりの距離感やフォームを身につけた奴の勝ちだ。1日1000球目標に打って、お前の人生変えてみろ」ということで勉強もスポーツも何もできなかったオタクな主人公(部屋には「女の子の本」ばかり)は自分を変えることに成功し、更に強烈なヒロイン(タバコを吸っている姿が妙に似合っている)によって人生を変えられるのである。これはワクワクするではないか。
 本作はラブコメとは言ってもパットだけがとりえのオタク野郎をめぐって複数の女たちが喚き出すというストーリーではない(そういう描写もあるにはあるが、メインではない)。主人公たちがヒロインにひきずられながら「大学日本一のゴルフ部を倒す」といういわゆる「スポ根もの」なのである。しかしながら運動神経とは関係ない「パット」によってオタクな主人公はスポットライトを浴び、スポーツものが忌み嫌う「オタク」を特に問題とせずストーリーを展開しているところに新鮮さと驚きがあり、またラブコメの可能性を広げるものとなっている。今後ますます増大化する「オタク(平凡以下で運動能力駄目駄目)」がスポーツに手を出したらどうなるかの手本ともなろう。
 従来の「スポ根」さを微塵も感じさせず、それでいて主人公とヒロインはスポ根の王道である「一人では頼りないが二人合わせると未知なるパワーを紡ぎ出す」となって物語は終わるのであり、それはラブコメという好いた惚れたヤッたヤラれたの世界では表現できない爽やかさであった。本作は「スポ根」と「ラブコメ」のいいところだけをつなぎ合わせ、それを成立させた優等生である。こういうものがあると日本ラブコメ大賞全体に華やかさを与えて実にいい感じであるが、それにしても本作が2巻で完結というのはどう考えてもおかしい。これが3巻、4巻と続いていれば1位も夢ではなかっただろう。「連載再開の署名」とかがあるなら俺も署名しますよ。
   
第2位:こはるの日々大城ようこう講談社アフタヌーンKC]
こはるの日々(1) (アフタヌーンKC)

こはるの日々(1) (アフタヌーンKC)

 「ヤンデレ」が思ったほどラブコメにおいて効果を引き出すことができなかったのはヤンデレの使用方法を誤解しているからである。ヤンデレを出すということは「歪んだ、病んだ愛情」を全面に押し出すことに他ならないが、そんなものは程度問題であって人は誰しも歪んで病んでいるしヒロインが一方的に主人公に言い寄る(または詰め寄る)手法を取るラブコメは元々が歪んで病んでいるのである。そこを意識せずにヤンデレを全面に出してもキチガイの奇行となるだけであろう。
 そこで本作であるが、チビでドジな後輩を「助けよう」という意識もなく偶然助けたら(ただ電車に乗ろうとして転びそうになったのを助けただけ)感謝されなぜか一目惚れもされたらしいので主人公はヒロインとの学園生活を余儀なくされ、このヒロインは放課後誰もいないのをよそに主人公の使っている笛をしゃぶって「先輩の笛、先輩の味、おいしい」と言い、「先輩とはじめてベンチに座ってはじめてお茶した大切な思い出の品ですから」と言って空き缶をゴミ箱を漁って探し、朝から20件もメールをして、「先輩と夢で会えるようにおまじないを1000回やります」と言う、まあそこそこ強烈なヤンデレである(ストーカーと言っても違和感はないが、ストーカーもヤンデレもここでの意味は変わらないのでヤンデレとする)。しかし不思議とヤンデレにまとわりつくキチガイ感はない。なぜかと言うとヒロインのその行為に性的な要求が含まれておらず、本当の意味で純粋だからである。例えばヒロインが主人公のことを思って主人公の笛を云々という変態的行為(と言ってもよいだろう)は「お兄ちゃんのことなんかぜんぜん〜」(2009年4位)にも出てくる描写であるが、「お兄ちゃんのこと〜」のヒロインはそのかわいい顔の裏にふしだらな欲望(主人公と懇ろになりたい)があってその変態的行為をするが、本作のヒロインはただ「大好きな先輩の笛だ」と思うだけでそのような変態的行為をしていることが読者に伝わり、そのイノセントさに主人公(と読者)は立ち止まり、目の前にあるイノセントさと通常の恋愛関係によって感じる欲望の間に今まで経験したことのない落差を感じるのである。
 本作のヤンデレ的描写が優れているのはヒロインが主人公と出会ったことによって異常な行動に出ているからである。従来のヤンデレというのは好きな男ができようができまいがキチガイなのであって、それがわかった時点でラブコメとしての効果はそのほとんどを失うのであった。あくまで日常的な主人公(平凡で地味な普通の青年)に非日常を運んでくるヒロインという図式がラブコメなのであって、日常の生活を全て非日常に塗り替えてしまう「キチガイ」としてのヤンデレではなく、あくまでラブコメにおけるヤンデレ描写を目指さなければならない。本作はそれに成功しているのである。
  
第1位:はちじょ!〜ハーレムアイランド〜/アキヨシカズタカメディアファクトリー:MFコミックスCFシリーズ]
 というわけで本作が日本ラブコメ大賞2010の第1位でありますが、題名にもあるように本作は「ハーレム」ものである。そしてしつこいようだがラブコメとは平凡で地味な主人公(男)が複数の女に言い寄られるものなのであって、「ハーレム」とするのに理由はいらず、また難しいものではない。しかし過去「ハーレム」もので1位となったものは少なく、「住めば都のコスモス荘」(1999年1位)や「月姫」(2002年1位)がハーレムものの代表であろうが、いずれも物語に艶をだすために付随的に複数の女を登場させているのであってハーレムをメインに据えているものではない。「ハーレム」と聞けば誰もが飛びつくが、それを読むに耐えうるよう維持するのは難しい。これも何度も言うようにそれぞれのヒロインを書き分けるのが難しいからである。
 物語が時間と共に流れてキャラクターも時間の進行に沿って流れる時に主人公とヒロインの他にヒロイン2、ヒロイン3、ヒロイン4を同時並行的に動かしながら物語を発展させ回収するのは至難の業である。また「ハーレム」と威勢のいいことは言っても所詮我々は一夫一婦制に縛られているのであり、その常識を覆して常にハーレム状態を維持するのはかなり根気のいることでもある。本作では前半までは主人公とヒロインの関係をメインにストーリーは展開され、次第にヒロイン2、3、4が出現して騒がしくなるもあくまで主人公とヒロインの1対1を軸としながら残る3人のヒロインが粘り強く存在感を主張し、結末へと向かうに従ってその存在感が徐々に大きくなって最後には「主人公対ヒロイン1〜4」と発展してフェードアウトするのであり、その見せ方は大胆のようで繊細、繊細のようで大胆という見事なものであった。
 ではどうしてここまで成功しているのかというと設定とキャラクターとストーリーが非の打ち所のないほど要所で機能しているからである。将来に目標もなくのんべんだらりと過ごす主人公は八丈島で働き、そこで年頃の女たちに「私達4人のうちの誰かの未来には必ずあなた(主人公)が出てくる」と言われ棚ボタ的に関わるという設定と、性格や容姿や肌の色まで違いそうな全く別々の4人のヒロインが恐る恐る主人公と会話を交わしてお互いの考えていることを知ろうとする堅いキャラクター設定、そして度胸のない主人公は追い詰められ逃げ出し、「そんな人でも構いませんよ、そんな優しくて真面目な人だから…」という母のような大きさで包みこんでくれる結末がこれまでにない「ハーレム感」を醸成しているのである。ラブコメとは複数の女性による一瞬の快楽であり、一瞬ということはいつか終わりを迎えるということであるからその終わりを回避するためにその一瞬の時間を進んでは巻き戻し、進んでは巻き戻すというのがラブコメの常識であったが、本作では一瞬の快楽が終わった後巻き戻されてはいないが、かと言って主人公とヒロインの関係は終わったわけではなくむしろ発展されて終わっているのであって、言わば1巻完結であるこの短い漫画の中には「破壊と再生」がこめられているのである。
 そのため「ハーレム」と聞いて思い浮かべる色気は本作にはないが、代わりに家族のような暖かい「愛情と信頼」を得ることに(読者に意識させることに)成功している。これは明らかにラブコメを追い求めてきた俺の一つの到達点を示すものであり、本作を胸を張って1位と主張したいと思うのである。
  
 というわけで終わりましたが、今年最後の更新である次回はボーナストラック的に成年部門編であります。皆様最後までお付き合い下さい。