言語破壊官/かんべむさし[朝日新聞社]

 今はもうほとんどの人が忘れてしまっているが、70〜80年代の日本SFを少しでも齧ったことがある人なら「かんべむさし」のことは知っているはずである。筒井康隆のドタバタ、ブラックユーモアを髣髴とさせる小説を得意として活躍していたが、筒井の作品ほどキチガイ沙汰で中毒性が強いわけではないので時代と共に忘れ去られてしまった。それでも「生活感のかけらもない、難解なだけの、いかにも上っ面だけ生きているスイーツ(笑)が喜びそうな」最近の糞SF・糞ラノベよりは何万倍もマシですので読んだわけです。
 昔(と言っても60〜80年代)は「中間小説」という言葉があって、これは純文学的なところと娯楽小説的なところをミックスした小説というものであったが、現在のように極端に細分化した悲惨な文壇(「文壇」などというものはもう存在しないと思うが)が見習うべきはこういうものだと思うのだが、若く溌剌として将来有望な諸君はどうお考えですか。
 さて短編SFの場合何よりも重視されるのはアイデアであり、そのアイデアによって発生する非日常的展開を最後に回収するか、或いはただ突き放してその非日常的展開を読者に放り投げるかの二つが短編SFの基本的なパターンである。どちらであっても完成度が高ければ面白いが、表題作である「言語破壊官」はいわゆるハナモゲラ語(これも今はもう誰も知らんのだろうな)を駆使して読者を一方的に置き去りにしているというよりは我々とは全く違う世界の言語を展開させ、その「違う世界の言語」ぶりを徹底することによって読者はまるで別世界に旅行している感覚に襲われよう。
「このぱるりは、おまえのとらびりっているぱるりそのものか」
「そうだ。僕はこれをとらびりっている」
「では、もう少しふりもとぐったぱるりをなててみろ」
「そわげた。樹はとちかねぐって、いまそわげた。ころめつづけて、とくがれなかったが、世広の心思点をいまそわげたのだ」
 また「スリム大佐の回想」もアイデアをうまく料理できた好例と言える。「アキレスは亀に追いつけない」「矢は的に当たらない」のパラドックスを使って手に汗握る一瞬をうまく表現している。
「(自分に向かってくる矢は)わしに到達しない。何となれば、一瞬のこととはいえ、一瞬とは単位量ではなく短いということを表現するたとえに過ぎないからだ。すなわち、仮にあの矢が全行程の半分の15ヤードを飛ぶに要する時間をX秒とすれば、次の7.5ヤードを飛ぶに二分のX秒を要し、さらに次の3.75ヤードは四分のX秒。以下いくらでも飛翔時間の細分はできる。無限にできる」
「1ヤードは36インチもあるのだぞ。しかも単位の換算をすれば1インチは2.54センチ。これは何と25.4ミリもあるのだ。そのうえ、1ミリとは千ミクロンのことで、1ミクロンは千ミリミクロン。すなわち1ミリは百万ミリミクロンであるがゆえに、25.4ミリは2540万ミリミクロン」
 これ以外の短編も面白いことは面白いのが、どうしても筒井康隆の二番煎じな感じは否めないのが気の毒なところではある。「意地張月」「頼母子島」「試験の多い学校」もそれなりのアイデアと完成度ではあるが、いずれも筒井作品で似通った筋書きのものがあったような気がするし、「サテライトDJ」の最後の混信の様子など筒井作品そのままである。しかし面白いことは面白いので、まあその、100円で買ったのだからええわいということですかな。