江戸の無意識 都市空間の民俗学/櫻井進[講談社:講談社現代新書]

江戸の無意識―都市空間の民俗学 (講談社現代新書)

江戸の無意識―都市空間の民俗学 (講談社現代新書)

 さて本書を読み終わって一言感想を言うとすれば「やたらと難しいな」である。ミシェル・フーコーの権力論を日本の江戸時代に当てはめて追及したものらしいが、いささか物事を「権力的」に解釈し過ぎのような気がして読みにくかった。これは俺が民俗学や思想史をまるで知らないからかもしれないが、いや、うーん…。
 平成時代に生きる我々は江戸時代を何となく牧歌的な時代だったと考えている。260年の長きに渡って外国と諍いを起こさず平和を維持し、その中でいわゆる「粋な」江戸っ子たちが長屋に住む隣人たちと助け合いながら明るく楽しく生きているような光景が浮かび上がる。しかしながら作者曰く、江戸に暮らす大部分の庶民(都市下層民)たちにとって江戸は「碁盤の目状に分割されたブロックの内部に彼らを囲いこみ、町奉行所の警察権力やそのスパイのたえざる監視の目におびえなければならなかった恐怖の権力空間」であったという。そしてそのような病んだ都市空間の中で、「生存の不安から逃れようとして夢想した空間」こそが我々が今日イメージする「下町の情緒」である、と本書は主張するのである。
 百万都市として高度消費社会を形成していた江戸に住む都市下層民の大部分はその日暮らしの生活を強いられ、頻発する火災によって財産を失う可能性があった。「江戸っ子は宵越しの金は持たない」と言うが実は宵越しの金を持ちたくても持てず、その意識は自然と「板子一枚下は地獄」という海洋民的なものにならざるを得なかった。葛飾北斎富嶽三十六景」で最も有名な絵と言えば「神奈川沖浪裏」であるが、鋭い爪のような波が舟に襲いかかり、それを前にして人間はなすすべを知らずただ舟にしがみついているだけというこの絵こそ当時の都市下層民の無意識が凝縮されているというのである。
 また巨大な市場経済圏となった江戸では町全体が武士も町人もいくつかの単位に「組み合わせられ、構成される」ようになり、全ての人間が全ての人間を監視し、同時に監視されるシステムが完成する。それはミシェル・フーコーが西洋近代の市民社会において「人間を直接監視と処罰の対象とする権力」が発生したことが日本の江戸時代においても当てはまるということになろう。
 経済的に不安定な生活基盤と、「監視し監視される」緊張感に満ちた生活を送る都市下層民にとって、「江戸情緒」とは彼らの興奮や不安を鎮静化させるためのアイデンティティーであった。江戸の大衆に人気があったのは浮世絵で知られる歌川広重であって葛飾北斎ではない。なぜなら北斎の絵は見る者に安定感を与えてはくれないからである。「神奈川沖浪裏」に代表される風景絵の数々はいずれも自然が人間に襲いかかろうとするその一瞬をカメラ・アイの要領で実に精緻に描いて、それは「自然の脅威」のように自らの力ではどうにもならない大きな力に支配される都市下層民の無意識に訴えかけるものであった。だから人気がなかったのだ。
 と、ここまでは何とか理解できるのだが、この後「『江戸情緒』という雰囲気や気分に同一化することによって、個々の人間の持っている実名的な世界を消し去り、匿名的な世界に押し戻そうとした」「匿名的で孤独な生を送る都市下層民の病んだ無意識の治癒への欲望が、より強力な規律=訓練的な社会を再現し、排除の力学を発生させた」「北斎は、強力な個性を持つがゆえに、それが自己同一的なものとして固定化することを恐れた」という結論の部分については何となくわかる気がするがどうも抽象的過ぎていまいち自分の中で咀嚼することができませんでした。うーん。まだまだですな。それに「大江戸神仙伝」シリーズを読んでいる俺にとっては江戸市民がそのように「監視と処罰」の絶えざる緊張の中で生活していたとも思えない。まあこれからも江戸時代関連の本を読んで、いつかまた本書についても言及したいと思います。