大日本マスコミの試練

 田中角栄の秘書を務めた早坂茂三は日本のマスコミの特色を「ドロドロとした現実から目をつぶる幼児性である」と喝破したが、最近のマスコミの有様は幼児性の更に幼児性に向かっているように思われる。マスコミの仕事は権力者の悪口を書くことであるが、一方の権力者の悪口を書くことによってもう一方の権力者の地位が補強されては意味がないのであって、複雑怪奇な権力の行方をウォッチできるのは様々な当事者と直接接触ができるマスコミだけなのにもかかわらず相変わらず官僚や政権交代前の古い考えに操られ悦に入っている。幼児ならばゲンコツをお見舞いすればいい話だが、図体が恐ろしくでかいマスコミではそうもいかない。
 田中角栄が金権腐敗の巨悪と言われ、マスコミから袋叩きにされながらも病に倒れるその時まで「闇将軍」として日本政治の巨星であったのは常に選挙で勝ち続けたからである。政治家にとって唯一最大の武器は国民からの支持であり、この場合の「支持」とはマスコミの支持率云々ではなく実際に投票用紙に「田中角栄」と書いてもらうことである。だから極論すれば代議士はマスコミを相手にしなくてもよい。或いは有権者もマスコミを相手にする必要はない。
 しかしながら官僚はそうはいかない。官僚が最も頼りとするのはマスコミである。官僚は政治家たちのスキャンダルをマスコミにリークすることで世論を沸騰させ、その混乱に乗じて自分たちの地位を脅かす政策や法案を葬ってしまう。ただしそうそうスキャンダルが転がっているわけではないから、首相や大臣や与党幹部たちの水面下の動きなどもマスコミにリークして世論に反対の大合唱をさせたり政治家たちを互いに疑心暗鬼にさせたりする。いずれにせよ官僚の常套手段は派手な花火を打ち上げてマスコミがそこに群がっている間に人知れず自分たちの目的を達成するということである。
 官僚が自民党と二人三脚でこの国を運営し高度経済成長と冷戦が続いている時はそれでも特に問題はなかったが、現在の弱肉強食のグローバル経済の荒波の中でそんな事をやられてはたまらない。国民は経済政策を含めた様々な政策の選択しなければならないし、その国民の選択を受けた政治家がこの国を引っ張っていかなければならない。だから国民は自民党を下野させたのであり、民主党政権は政治主導に向けて、官僚との戦いをはじめているのである。マスコミがそこで(意識しなくても)官僚の味方をしたのであれば「日本のマスコミ」に対する支持率も急落しかねない。宮内庁長官が記者会見で「天皇の政治利用」だと懸念を表明し、中身は何かと言えば天皇と外国要人の間で会談を設定するには「一ヶ月以上前」に連絡がなければならないのに、そのルールを破って中国の副主席と天皇の会談が実現するよう民主党小沢幹事長が強引に働きかけたというのである。そのニュースを聞いて俺が思ったのは「では会談は流れたのだな」ということであったが、何と宮内庁はOKしたが、どうも納得がいかないので記者会見でその事を公にしたらしいのである。ということは宮内庁も「天皇の政治利用」に加担したことになりはしないか。いやそもそもなぜ矛先が小沢に行くのかがわからない。それは当然外務省ルートで解決しなければならない問題であり、日本外務省が中国外務省を説得できなかったから中国外務省は与党の実力者である小沢に頼みにいったのである。そこで結果的に小沢が「ゴリ押し」したとして小沢を悪の権化のように叩くのは紙面的には面白いが、外務省や宮内庁の不手際については何も言わないというのは官僚がほくそ笑むだけではないか。
 或いは民主党は「脱官僚」を掲げているが、日銀総裁の人事や予算編成を見ても財務省などの官僚と対決するつもりはないのではないかとマスコミは大合唱している。しかしながら現実的に考えてみれば数万人規模の従業員を抱える組織の経営陣が常に数万人の従業員と対決姿勢でいられるわけがない。そこには必ず「アメとムチ」があり、民主党の政策に賛成する官僚にはアメを、反対する官僚にはムチを与えるという風に操作するのが現実的である。アメリカでは政権が交代するたびに数百人、数千人規模で官僚が入れ替わるのであるから政治主導になるのが当たり前であり、そのような事が不可能な日本の官僚制で政治主導を実現するための現実策は「アメとムチ」以外にないだろう。
 現在の状況は明治以来の「官僚中心の国家」が、「政治中心の国家」に脱皮できるかどうかの瀬戸際である。自民党政権下でも様々な策略で主導権を握り続けてきた官僚がおとなしくしているはずがなく、きれいごとを好物とするマスコミにスキャンダルニュースを与えて「やはり政治家は信用できない」という世論が生成されるのを官僚は手ぐすね引いて待っている。それでもマスコミは官僚からのリークを垂れ流すのであろうか。記者クラブ制度をはじめとする様々な権益に守られてきたマスコミの、試練の時がやってきたのである。