SFアドベンチャー 1987年6月号[徳間書店]


 80年代のSFの全てがわかる雑誌・SFアドベンチャーのバックナンバーを断続的に買い続けてもう7年は経つ。どうしてこんなものを買い続けるのかと言われるといつもなら「そんなもん俺が聞きたいわい」と答えるところだがまあ少し真剣に考えてみると、結局今現在に連なるオタク文化とかサブカルチャーがこの当時では非常に小さい形でまとまっているのが俺にはちょうどいいのだろう。いやこの言い方は少々いやらしいな。要するに昔のことだから一歩引いた形で、というより上から見下ろす感じで接することができるから安心できるのだ。ということはやっぱり俺は器の小さい最低野郎ということかね。はっはっは。
 1987年に26歳の俺がいたら一体どうしていただろう。その時はその時でやっぱりラブコメじゃ政治じゃと騒いでいて、バブルの浮かれ騒ぐ同世代をひねくれた目で見て一人読書に励んでおったに決まっている。既に「めぞん一刻」「ストップひばりくん」「みゆき」「聖凡人伝」といったラブコメも世に出ているしな。しかし当時はBOOKOFFなどの大型古本屋はないだろうから全てサラで買わざるを得ず、経済面は今より大変かもしれぬが我が社も1987年当時ならば結構な地位にあったであろうからのんびりのほほんと暮らせただろう。
 というわけで本書であるが、前回1月号から引き続いて「新・日本SFこてん古典」「不定エスパー」が連載され、「ウェディング・ドレスに紅いバラ/田中芳樹」や「聖シュテファン寺院の鐘の音は/荒巻義雄」といったの重量級の小説が並び、名物の新刊チェックリストも相変わらずSFに対する並々ならぬ情熱が滾っているわけである。いいものである。何というか、おいしいところをちょっとずつつまみ食いしている感じがして、あれま俺こんなに楽しんじゃっていいのかねと少々不安になってきました。まあストレスだらけの現代社会の勝ち組はいかにしてストレス解消術を効率よく無駄なく低コストでできるかですよ(意味がわからん)。
 まずいかにも軽めの肩のこらない「マザコン刑事の事件簿/赤川次郎」で頭をほぐし、アクション&サスペンス&青春という言葉がぴったりの「ウェディング・ドレスに紅いバラ」で昔憧れたドキドキワクワクの小説世界に没頭し、タイムトンネルで過去に行くことができたはいいが行ったところでもし帰れなくなったらこわいし実際に生活するとなったらレトロなんつって楽しんでられないからまあアンテナを引いて昔のテレビを見るだけにするかと妙に納得してしまう「タイムトンネルだよ、ピーナッツ!/清水義範」に何度も頷き、「新刊チェックリスト」を見てメモを取り(SFアドベンチャーで一番楽しみにしているのはこのコーナーである)、幻想と甘い官能に思わずトリップしてしまう「聖シュテファン鐘の音は」で甘美に浸り、日常を襲うサスペンスな事件からジワリジワリと異世界的なホラーが忍び寄る「夜が笑う/水城雄」を読んで降りる電車を過ぎてしまい、ハードボイルドな男の生き様が溢れる「On The Dark Side of The Street/火浦功」でしたたかに酔う。うむ、読書の醍醐味・雑誌の醍醐味が全部詰まっているわけか。素晴らしい。普段読まないような小説も雑誌であれば「まあ、せっかくだから」という感じで読むことができるし、雑誌というのは人類が発明したものの中で特に優れたものではないかな。というわけでまた三宮の超書店MANYOに行って買おう。いや神保町に行ってもないしあっても高いからねえ。しかし我が身は東京暮らしであって、誰かいい所知りませんか。
 それにしても「今どきSFアドベンチャーを読んで楽しんでるのは日本で俺一人ぐらいだろうなあ」という興奮と快感は筆舌に尽くしがたいものがあります。皆さんもそういう趣味を見つけてはいかがでしょう。
  
 十夜連続の更新終了。天下の糞煮込み、暴虐と暴走の被害妄想のまま陰湿に語る俺こそが狂気だ。しかし狂っているのは俺だけか。何もかもぶっ壊れた。グローバルの襲来によりプライドを粉砕された人々は安らぎを求めて閉じた居心地の良い世界、即ちオタクへと足を踏み入れた。何が安心で何が普通なのかわからず迷宮と化した現実ではかつて蔑んでいた汚物にさえ救いを求める。時同じくしてインターネット時代の幕は開け、匿名を盾に嫉妬と甘えは肥大化し、タブーはなくなり人々の攻撃性は檻から飛び出した猛獣の如く獲物を食いちぎっていくのだ。何という世の中か。強き者を地獄へ突き落とすことに快楽を見出し、一夜限りの欲望を貪ることに快楽を見出し、それら全ての責任を空の上に放り投げることで快楽の後始末さえ要求する傲慢さが充満している。混沌の世界だ。いや、だからこそ本当ならば兵庫県の糞田舎で怠惰と惰眠の中で死にゆくはずの俺がこうして東京にいるのではないか。信じるものは自分のみ。情報の洪水の中で、溢れかえるほどの情報に囲まれて本当に必要な情報を手に入れるのは一昔前よりずっと難しくなった。真実の情報を求めて人々が殺到すれば情報は更に多く早く処理されますます大量化する。俺は恐ろしい。安心を求めて人々はあらゆる情報の渦へ飛び込み更に溺れようとしているのだ。だが後戻りすることは許されない。時計の針は元には戻らず、一度放出された欲望はとどまることを知らぬ。俺もまた、「ブログ」という快楽を知ってしまった以上このまま突き進むしかないのだ。俺はこの先どうなるのだろうか?ただひたすら自分にとって最も正しいと考える道を突き進むしかなく、俺が死のうが生きようが明日はやってくるのである。