社会派くんがゆく!/唐沢俊一・村崎百郎[アスペクト]

社会派くんがゆく!

社会派くんがゆく!

 ヌルい。これではヌル過ぎる。「超過激社会時評」と言うからには一体どんな地獄の笑いを見せてくれるのかとドキドキしながら読んで読んでページをめくっていったら何と読み終わってしまった。なあにが鬼畜ライターか。至極まともな事しか言っとらんではないか。「うるせえな!本屋で売る本で文字にできるのはこの辺が限界なんだよ!」とのことで、確かに××で消しているところをもし本当に文字にしたらえらい騒ぎになるのだろうが、それぐらいしてくれないと俺は満足しない。ただ「あんな奴死んだ方がいい」とか「あいつ頭おかしいぜ」などと言っても芸がないのであって、どうしてそいつが死んだ方がよくてどうしてあいつが頭がおかしいのかを放送禁止用語を連発しながらねちっこくいやらしくブラックユーモアを交えながら嬉々として話してこそ禁断の快楽なのである。それにしても「キチガイ」を「キ×ガイ」とせざるを得ないのが決定的に物足りなかった。そんなもん皆言うとることやろが。
 本書では2000年の17歳犯罪ブームから2001年の同時多発テロ直前までの世相を、昔で言うところの「裏ジャーナリズム」のように本音で毒舌に饒舌に二人の怪しげなライターが語るわけである。それは「子が親を殺し親が子を殺し、政治は滅茶苦茶経済は滅茶苦茶でありながら今日もそんなことはどこか遠い国の出来事のように我関せずで己の欲望に忠実に快楽だけを求め続ける糞日本と糞日本人と糞ジャーナリズム」の悪口を好き放題言い合うことでこの訳のわからん人生を乗り切ろうという、俺から言わせれば非常に真面目な対談なのである。被害者に同情し怒り抗議すれば後はきれいさっぱり忘れて酒飲んで金の力でいい女とヤってもう何も残らないという大部分のグロテスクな人々よりは人間の醜さや異常な性癖や話題にするのもゲンナリする阿呆らしさを直視しそれを笑いに転化する彼らの方が真面目だと思うのは俺だけではあるまい。
 あとがきで唐沢が17歳の犯罪者たちについて「『我々の社会のひずみの代表』などと言うからつけあがらせる」「ありゃチ×ポがギンギンになった高校生がザーメンも放出できないもんだから犯罪に走ったに決まってんだろうが」と言っており俺も全面的に賛成するが、俺から言わせれば17歳にもなって包丁振り回して人を殺すような奴はその先何が待っているか想像、いや考えもつかないキチガイなのであるから話題にするだけ無駄なのである。それにいくら少年法が守ってくれるといっても因果は必ず応報される。今は意味がわからなくとも年を経るに従って自らの行為がどんなものだったか知り、良心の呵責が必ずやってくるだろう。この世に良心の呵責ほど恐ろしいものはない(ベトナムイラクから帰ってきた兵隊のその後を見てみろ)。そんなことに気付かないのは阿呆とか異常とかの問題ではない。人間としての要件を満たしていないと言っても間違いではないと俺は考える。
 むしろそのようなキチガイキチガイの仕業と無視できないところにジャーナリズムの恐るべきキチガイ体質があるのであって、キチガイの犯行を「またしてもキチガイがやりよりました」と表は沈痛そうに裏では嬉々として放送するジャーナリズムってのは一体何なのでしょうね。ほら葬式で、遺族に「故人の生前の一番の思い出は何ですか」とか面と向かって聞く奴いるでしょう。あれは「あんたが泣いた方が絵になるし話題になるのさ。ほれ泣けい。泣けい」と思っているからこそできるわけです。そんな糞ジャーナリズムなど木っ端微塵にしてしまえ。
 どうも支離滅裂になってきたが、要は本書のように「世の中は阿呆の異常の変態だらけ、教師はロリコンだし裁判官はストーカーだし若い奴は女を口説けず殺して死姦するしジャーナリズムはそれらを見て喜んでるしで、でも俺たちがそれに便乗して何かやったところで行き先は豚箱で死刑しかないことはわかっているしそれは絶対に嫌だしお前らが訳のわからんことをするのを見てるだけで一向に退屈しないからまあ我々はお前らを話のネタ、酒のツマミにして死ぬまでおとなしく善良な一市民のままでいようか」とする生き方こそ誠に面白く、痛快で、知的だということである。続編があるということなのでまた読んでみよう。今度は××は無しで頼みますぞ。水産高校の親なんざ×××とか、皇太子妃雅子の懐妊が×××とか、公明党にとってゴジラとは池×大×(池尻大橋ではない)とか、ブログやってる奴はみんな×××とか…。