花嫁化鳥/寺山修司[中央公論新社:中公文庫]

花嫁化鳥 (中公文庫)

花嫁化鳥 (中公文庫)

 名前だけはよく聞くベストセラー作家の小説を読んだだけで「趣味は読書です」と堂々と言う阿呆が増えそれに周りも特に疑念を挟まないという状態がここ5〜6年で当たり前のようになっているわけである。しかし前にも言ったように「好きな作家は寺山修司です」という高校生がいたら俺は手放しで賞賛しよう。寺山修司の描く華やかで暗くてグロテスクで優しい世界を知っているのだからな。
 戦後がスタートし日本各地で「戦後化」が進行していた。「戦後化」とは日本社会が欧米流の機械化と合理化に染まることである。その中で古来より伝わる各地方独特の奇習、民間信仰、呪術的な思想が消え去ろうとしていた昭和48年に作者は日本のあらゆる地方を訪れ、その奇妙さとユーモラスさと儚さに触れ、それらの奇習の背後にある日本的なものの片鱗をルポするのである。土佐の荒々しい闘犬、浅草のゲテモノ見世物小屋、裸の男たちのけんか祭り、くじらを供養する寺、閉山した炭鉱に残る見事な歌舞伎小屋等を通じて見えてくるのは暗く陰鬱でありながらどうしても惹かれてしまう祖先たち(かつての日本人たち)の軌跡でもある。
 しかしながら本書で作者はそのように何百年何千年と続いてきた奇習や呪術的思想について否定も肯定もしない。幼い頃父が死に、母は水商売稼業となりやがて息子である作者を捨てたという昔は結構な数の日本人が経験したであろう暗い過去を折りに触れ思い出しながら廃れゆく過去の奇習をただ静かに眺めているだけである。そこには絶望や悲しみを経験した者がその代償として会得した透明感があって、華やかさも陰気さも喜びも悲しみも全て作者によって生活の断面として等分に読者に沁みこませる感動がある。
 「共同体の成立と保持のため」に過去の日本人たちが行ってきた呪術的思想とそれによる奇習はその共同体の崩壊により消え去り、俺が生きる今現在ではその面影すら見ることができない。しかし作者は旅行者としてその共同体に属せず、故に共同体の外から眺め冷静にその事象を書き残すことができる唯一の人物であった。欧米化の波という時代の必然によって消え去り、また当時の人々が忘れたいと思った暗く陰鬱な奇習と過去を前にして俺に何が言えよう。悲しみや絶望を奇習や民間信仰に頼るしかなかったかつての日本人たちの足跡の果てに現在の俺や諸君やこの生活があったのである。
 「だが、何と言ってもわびしいのは浄閑寺である。浄閑寺は別名を「投げこみ寺」と呼ばれ、身寄りのない遊女の死体を、言葉通りに「投げこんだ」寺であり、たとえ身寄りがあっても、職業柄知らんふりをされ、家名のため、世間体をとりつくろって引きとりに来ぬ親族をうらみながら、「投げこみ寺」で雨ざらしにされたものだったという。
 (中略)売られてきた飢饉の米代の代償の娘たちにとって、自分の感情をもつことはご法度だった。
 万一、客とりを拒んだり、間男を作ったりすることは、そのまま地獄の責苦を意味しており、折檻されて死んでも、うかばれなくなってしまうことを意味していた。当時の過去帳の死因を見ると、栄養失調、縊死、変死、殴死といったものが見られ、それがそのまま、彼女たちの苦しみをしのばせてくれる。しかも、過去帳に残されている彼女たちの戒名も、信女、比丘尼というのにまじって売女となっているのが、あわれを誘うのである」
  
「ところも知らぬ名も知らぬ
 いやなお客もいとわずに
 夜ごと夜ごとのあだまくら
 これもぜひない親のため
 思えば、十六、七歳の農村の娘たちに、「身売り」しなければならぬような借金があった訳がなく、ほとんど「ぜひない親のため」に売買取引されたに違いないのだが、そのときから彼女らは人間としての、あらゆる自由を放棄させられてしまうことになったのであろう。日本的呪術の原型は、究極的には「家」の維持と、親子の血のつながりの道徳化、そして親の子を私有する権利、それらの秩序を守るため、「性行為は生殖手段として『家』の子孫繁栄のためのものとしてのみ許される」という法則の中で培われてきた。それが「因果的連鎖を支配するところの特殊な法則の性質に関する全体的誤認」によって、悲しい犠牲者を出し続けながら、政治化されることもなく、歴史を血で染めてきたのである」