政治は踊る

 唐突だが国家権力は誰のものであるか。内閣総理大臣か、自民党幹事長か、それとも官僚か。いずれも違う。国家権力は国民のものである。内閣総理大臣は国民の委託を受けた国会議員が更に委託して権力を持つことを許されたに過ぎない。我らのエリート・マスコミは「国民本位」を錦の御旗の如く唱えるがこのような肝心のことは言わず政局状況だけをセンセーショナルに報道し続け、俺にとっては面白いから構わんがあまりのレベルの低さに少々うんざりしてしまう。
 なぜ突然そんなことを言い出したのかというとアメリカの金融安定何とか法案を見ていてふとそう思ったのである。アメリカの共和党政権が銀行に公的資金を注入するなど天変地異に等しき事態であるが、これを下院は否決した。このニュースを阿呆マスコミは「日本もアメリカも政治家は政局ばかり、国民を見ていない」と罵倒したが、俺はアメリカ下院議員たちは国民のことをよく見たからこそ否決したのだとほとんど確信を持って言えるのである。
 今回の経済混乱と言うのは長い長い間続いた「マネーゲーム」の崩壊によるものである。などというと短絡的過ぎるかもしれんが要は株や先物などの金融商品を買って転がして転がして売ってまた買ってという、ボタン一つで何百万何百億何百兆が動くマネーゲームの果てに起こったものである。その負の遺産を税金で補填するということにアメリカ国民は納得できなかった。日本の遥か最先端を行く超格差社会アメリカに蠢く低所得者達の声に議員は耳を傾けた。だから否決した。とは言えそのようなマネーゲーム実体経済そして生活に大打撃を与えることもわかっていたから否決の数日後に修正案を可決したのである。最初の否決で国民の怒りの声を代弁し、次の修正案で国民の生活の不安に対処した。これぞ民主主義である。
    
 少し前の話になるが、麻生首相が執務後ホテルのバーで葉巻をくゆらせながら上等の酒を飲んで帰宅することを批判の論調でマスコミが伝えていた。内閣総理大臣にプライベートなどないのであるからそれを伝えること自体は問題ないが、そのプライベートの時間に何をしようが知ったことではない。祖父の吉田茂も貴族趣味のしょうもない奴であったが戦後日本の復興を見事に成し遂げた。岸信介田中角栄は言うまでもない。仕事ができればプライベートがどうであろうと問わないのが実力主義というものであって、このあたりは様々な規制に守られているマスコミ人とグローバル市場で戦うサラリーマンの意識の違いである。いずれにしろもうすぐ総選挙があるのだから、いけ好かんのなら落とせばいいだけの話だ。権力は国民が持っているのだからな。
   
 と、ここまで書いて「年内総選挙なし」のニュースが入ってきた。「金融危機でそれどころではない」かららしい。震源地・アメリカがまさに大統領選の真っ只中にあるというのにこの体たらくでは麻生の手腕も自民党政権運営もグダグダと言うしかない。何度も言うように今この国には二つの権力が(国民からの委託を受けて)存在している。衆議院の多数派と参議院の多数派である。衆議院の多数派が「選挙やりません、経済大変です、だから協力しましょう」と言って参議院の多数派が「その通りですね、一致団結弁当箱」と向こうから走ってやってくるはずがない。やるべきことは総選挙で民主党に政権を明け渡すか、民主党を分裂させて参議院の権力を取り戻すことである。いや或いは来年1月に総選挙と言うこともあるかもしれぬ。それならば自民党は予算案を携えて選挙を戦うことになり、「俺ら政府、あいつら野党」と差別化もしやすくなる。
 それにしてもここまで「解散するのか、しないのか」と毎日毎日聞かれる首相というのも珍しい。そして首相が明言していないのに既に多くの立候補者が事務所を借り選挙運動員を大量に補充し臨戦態勢に入っているというのも珍しい。ただ一つ言えるのは、このような未曾有の「浮き足」状態でじっくり腰を落ち着けて政策をすることなど不可能ということである。それでも解散を先送りするということは、よっぽど自民党が負ける公算が大ということだろう。
 選挙は流した汗と涙の数で決まる。「郵政民営化小泉改革」と言えば犬でも猿でも当選できた3年前は遠い昔である。小泉は引退し、政治の恐ろしさが何一つわからぬ小泉チルドレンだけが残った。それに比べ民主党は現職・元職であっても当落線上にいる候補者については公認しないという厳しさに打って出た。小沢が勝つか、麻生が逃げるか。政治は一瞬の休息もなく、ただひたすら踊り続けるのである。