3 バレンタイン攻防戦

 あっ。何ということだっ。今日はバレンタインデーではないか。おおバレンタインつまりチョコの存在が我らの命運を握り一つ空から星の月。もはや非モテの権威と化したこの俺だが何を阿呆のようにバレンタインバレンタインと叫んでおるか俺はラブコメと政治の奥地へとまだまだ進んでいかねばならぬのだそんなもんに構ってられるかおおそうなのです杉野はいずこ満州は生命線国連軍はまだ来ないしかしたまにはこうやってタイムリーな話題を入れなければインターネットをやっている意味がないではないかHEY言っておくが俺は全然平気だぜ俺の部屋にあるこの天井を突き破るほどに積み上げられたラブコメ作品群プラス政治資料こそが甘い青春うは。うわは。うわはははははははははははははは。しかしバイト先の女事務員にチョコをもらうとそれはそれで嬉しい気がしていかんいかんいかんお前は三次元に見切り発車したはずではないか今さら二次元に各駅停車してどうする運命よ炎のように力の限り井戸の底には天井がHEY毎週月曜日は恐怖のひとりよがり的わがまま三昧的ラブコメ書評シリーズ「脱走と追跡の読書遍歴」。
    

ときめきエッチ/田中ユタカ蒼竜社:プラザCOMIX]


出た。田中ユタカ。あの田中ユタカであります。我が「オールナイトラブコメパーカー」でもその異色さを説明することは困難を極めるが、それは作品があまりにもラブコメ的にもしくは和姦主義的に突出し過ぎているので思わず身構えてしまうからであって、本来ラブコメもしくはエロ漫画というのはこうあるべきなのだ。本書のように男女間の恋愛もしくは肉体関係において完全に破綻のない愛もしくは破綻の見出しようがない愛(であると、少なくとも俺のような恋愛経験が全くない者には感じられる)というものを描くことができるのは筆者だけであり俺はそれを読みたいのであり、この本及び他の田中ユタカの本を読んだあと三宮の「とらのあな」や「メロンブックス」に行くと(今日、行ってきたのだが)そのあまりの鬼畜凌辱強姦ぶりに俺などはどうなるかわからんぞ。で、まあとにかく「ときめきエッチ」であるが、もうこの名前だけで恥ずかしいことこの上ないが、重要な点は二つある。一つはもちろん作中に出る男が積極的でない点であって、それはまあ今からアレをやろうとしているのだから少なくとも俺のようなひきこもりではないが、かといって積極的にベッド上でリードしたりはしない。あくまで初々しく、恋人とのこれから訪れるであろう幸せな時間に胸躍らせているのである。ああ「幸せな時間」などとこの俺が言うのか恥ずかしいなあ。そしてもう一つは相手方の女が男に対して極めて献身的であることであって、どう献身的かといえばもう精神的にそう仕向けられているのである。それはつまり男が気持ちよさを表現するだけで女は心の底から男に対して愛情を感じるようになることからもわかる通り、こうなっては男が何をしようと女はそれを100%受け入れてくれることが読んでいる俺にはわかってしまうのである。これは非常に重要なことで、描写自体は肉体交渉だがそれは愛の感情の交渉を肉体的な行動となって表わしているに過ぎないことを説明しているのである。なぜなら本書にも他の田中ユタカ作品も言えることだがこれら一連の性交渉は愛の儀式の一形態に他ならないからであって、いやとにかく読んでいてそのように俺は思うのでありそれこそが俺が求めるエロ漫画の本来の姿なのだ。しかしそんな女々しいことを言う俺は何だ。まあ俺は平気で光彩書房やおいじゃないぞ)とかを読むが。え。いやまあそれはそうなんだがこんなことを書いては生き恥をさらすのと同じ。しかしバレンタインデーとやらに一人でこうして悶々とわけのわからんことを書く俺にはこのような漫画こそ必要。え。そうなのか。は。ははは。しかし和姦主義者であると同時に一夫多妻主義者でもある俺には常に一対一というのは少し不満。いやまあそれは別の機会にわはははははははははははははは。ええと俺は何が言いたいのかなまあ田中ユタカ万歳で行こうではないか。
  

無敵英雄エスガイヤー/あろひろし白泉社:JETS COMICS]


この本は某大型古本屋で105円で売られていたのだが、ちょうど購入した時は深夜タイムサービスをやっていたらしく二割引の84円で手に入れた。自動販売機の缶コーヒーよりも安いのである。そのような本であっても俺にとっては1000円以上の価値があり、1000円以上の価値がある本を84円で買えるのだから素晴らしき哉日本経済深夜の橋渡り。白泉社というのはこのようなものすごいラブコメを散発的に出版するので油断がならない(「ふたりエッチ」や「ぶっとび!CPU」など)のだが、この「無敵英雄エスガイヤー」も我が「オールナイトラブコメパーカー」の五本の指に入ると言っていいほどすごい。とにかく一番最初の切り出しがすごい。すごいのである。どうすごいのかというと平凡なる予備校生が夜の街を歩いていてふと公園に目をやると地面に垂直に伸びる円錐体の光が空からあてられていて、予備校生が「何だこの光は?」と思い何気なく光に触れると空がパァッと光りどこからともなく声が聞こえてきて「君はこの惑星が失われると困るかね?」と言うものだから思わず「えっ。あ、ハイ」と答えてしまえばたちまち地球を守るヒーローになってしまうのであるすごい。素晴らしい。あの勧善懲悪を愛する想像力のない者たちに言わせれば「都合が良すぎる」ということになるのだろうが、このように平凡にして何のとりえもない主人公に偶然の結果を与えることは三次元上のこの現実でも大いにありえることであり極めてリアリズム的であるとは言えまいか。そしてそのようなリアリズム的な三次元的な論理を二次元に適用することは自然の成り行きであると俺は考えるのである(2月12日の日記参照)。大体反オタク軍にしても秋葉原軍にしてもどうしてそのような「現実にありえるかもしれない」立場にある主人公による物語展開を拒否し、ひたすら特権的な小学生のような単純にして薄っぺらい正義感を持ったスーパーヒーローによる物語ばかり求めるのだ。この。話がそれた。というより取り乱したが、まあ反オタク軍及び俺の盟友である秋葉原軍がどう思ったとしてもこのような素晴らしいラブコメが日本に存在するのだから日本の夜明けは近いと言わねばならぬ。さらに言えばこの雇われヒーローをサポートする女ロボットがいてこれがまた徐々に主人公に対して恋愛感情を抱くようになるのだが、何せ最初の印象が強すぎてあまり問題にはならぬ(ラブコメ描写自体が弱いわけではないが)。その後も主人公は平凡な予備校生らしくロボットとはいえ女と同居するようになっても手を出さず下品な軽口を叩くこともない。まさにパーフェクトラブコメ。言っておくがこの本はもう一生手離さぬからな。終わりに収録されている短編「恋はちょもらんま」については、ゴキブリを見て失神を起こすような俺が見てはいかん。
  

奇病連盟/北杜夫[新潮社:新潮文庫

なに別に不思議なことではない。物語つまり小説である以上はどんな作品でもラブコメになる可能性を含んでいるのであり、書く作家の傾向やジャンルは問題ではないのである。何がラブコメで何が買うに値するか読むに値するかを決めるのは俺であり作家の傾向やジャンルやその他の物言いなど無視すればよい。ラブコメの活字はライトノベルスだけというのは誰が言ったかしらんがとにかく俺がその定義に従う義務などなく、そもそもお金を払うのは俺なのだ。しかしあのライトノベルスというジャンル分けは何だ。そうやって特別の枠組みの中に押し込むことによってライトノベルスの持つ影響力を限定しようとするつもりか。もちろんライトノベルスのほとんどはラブコメ的にもまたは読書家としての俺の目から見ても糞のようなものばかりだがだからと言ってライトノベルスの文学性を認めないのはけしからん。大体「ライトノベルス」という言葉自体が蔑称ではないか。その昔小松左京星新一筒井康隆などの優れた小説を「SF」の枠内に閉じ込め文学への侵入を巧みに防いだ結果文学いや活字文化自体が衰退したことがあったが、今の「ライトノベルス」ブームでもそれと同じことをするつもりか。まあこの事については後日書くとして、「奇病連盟」である。なにぶん40年前のユーモア小説なので作中のユーモア描写も古臭いが、それでも平凡にして人生に疲れた中年男が自身の奇病によって少し頭のおかしい金持ちの目にとまり厄介な事件に巻き込まれたり厄介な人間(その金持ちの令嬢)と出会ったりするのであるから当然面白い。とくに後半、人畜無害な主人公をめぐって聡明な元同僚の女と金持ちの身勝手な令嬢が言い争いの挙句シュークリームの投げ合いをするところなど圧巻である(その女の戦いを止めるのが不純な男女の交際を神への冒涜と考える老女である)。このような小説を朝日新聞で連載したというのだから、それがラブコメという表示がなされていないだけで俺にとってはラブコメであるような作品がまだまだ世の中には埋もれているのではないかとも考えるのである。これは今現在の俺のささやかな希望である。