第10位:アイドルマスター シンデレラガールズ劇場/バンダイナムコエンターテイメント[KADOKAWA:DENGEKI COMICS EX]
さて本作はスマホゲーム「アイドルマスターシンデレラガールズ」のヒロイン達を描いた漫画版である。この日本ラブコメ大賞・オールナイトラブコメパーカーは原則として書籍に与えられるが、もちろんラブコメはアニメでもゲームでも映画でもTVドラマでも成立する。とは言え映画やTVドラマといった実写では「地味で平凡でおとなしい男」を表現する事は難しい。演じる俳優が高い演技力で「地味で平凡」を演じたとしても、それはその作品の中だけの事であり、その作品が終わればその俳優はまた華やかで豪華なスターの世界に戻るのであるから見る方としては反発を感じてしまい(「地味で平凡ではない男」が「地味で平凡な男の真似事」をしているに過ぎない)、ラブコメの効果はゼロとなる。またヒロインである女優はいくら最新の化粧を施したとしても所詮は化粧による美でしかないから、二次元の完成された美しさ、かわいさ、いじらしさには遠く及ばない。つまり映画やTVドラマにラブコメは理論的に不可能なのであり、可能なのはアニメとゲームしかない。
このうちアニメ作品についてはほぼ100%書籍化(漫画化もしくは小説化)されるから問題はないとして、ゲームはどうか。こちらも何らかの形で書籍化されるのが常であり、実際に過去多くの「ゲーム原作を書籍化したラブコメ作品」が世に出ている(下記参照)。
・「アマガミ」(2010・5位)
・「キャサリン」(2011・4位)
・「ラブプラス」(20122013・1位)
・「キスより先に恋より早く」(20122013・4位)
・「フォトカノ」(2014・1位)
そもそもゲームには「恋愛シミュレーション」というジャンルが確立されており、ラブコメがもっと大量に出てもよさそうであるが、一方でゲームであるからプレイヤー(主人公)はヒロインを攻略しなければならず、そのため主人公は「積極的、行動的、意識的に」ヒロインを射止めなければならない。それはラブコメの大原則である「ヒロインが主人公(=読者)を攻略しようと積極的に行動する」と矛盾するため、たとえ書籍化してもラブコメとして成立しないのが大半であったが、もちろん例外もある。上記に並べた各作品の共通点が「ヒロイン側から主人公に積極的にアタックする(事もある)」のであり、本作のヒロイン(アイドル)達もまた主人公(=プロデューサー)に対し「積極的にアタックする(事もある)」のであり、今をときめくアイドル達に積極的に言い寄られる事で主人公(=プロデューサー=読者)はラブコメ気分を味わえよう。但し主人公(の顔)は意図的に描かれておらず、そのため主人公(=プロデューサー=読者)が「地味で平凡で何の取り柄もない男」かどうかは確認できないし、芸能界に身を置く者が「地味で平凡で何の取り柄もない男」である可能性は低いが、アニメの武内Pという先例もあり、期待はできよう。
そのようにして10代~20代の美少女・美女達はアイドル生活のふとした合間に、信頼するプロデューサーとデートを画策し、バレンタインにチョコレートを渡し、水着や際どい服で誘惑しその反応を楽しみ、またプロデューサー(=主人公=読者)の裏方に徹した律儀さと献身さに頬を赤く染めるのであった。また主人公たるプロデューサー(=主人公=読者)が顔を出さない事が「裏方に徹する男」に好意を抱くヒロイン、という構図へと結びつき、結果的にラブコメとして成立している。
しかしこれだけアイドルの数が多いと誰に注目していいかわからなくなりそうだが、とりあえず佐久間まゆ、佐藤心、城ケ崎美嘉、高垣楓、速水奏、三船美優、が出ればラブコメ展開になる可能性が高いと覚えておけばいいでしょう。
第9位:お嬢様とボクのかわいいお姫様/美波リン[少年画報社:YKコミックス]
何度も言うようにこの日本ラブコメ大賞・オールナイトラブコメパーカーは「男に都合のいい」作品であればあるほどよい。これといった特徴のない、地味で平凡、平均もしくは平均以下の容姿、等、等の男を主人公にして、そのような主人公(=読者)になぜか女性が集う、言い寄ってくる、モテるといった都合のいい展開が起こるのであるが。そしてそのような作品を描く作者は大抵は男であり、また男でなければそのような「駄目な男」は描けない。より正確に言えば、そのような「駄目な男」感を女の作者では醸し出す事ができない。女の作者が描く「駄目な男」は本質的に駄目ではなく、だからそのような男は当然モテるのであり、「都合のいい」作品ではなくなる。しかし男が描く「駄目な男」は本当に駄目である、しかしモテる、から「都合がいい」のである。
もちろん、では作者が女であれば評価しないのかと言えばそうではない。世界のラブコメ王は常に実力主義で20年以上やってきたのだというわけで本作であるが、まず主人公は妻に先立たれ幼い娘を育てるシングルファーザーである。冒頭から娘を保育園に迎えに行くため会社の飲み会にほんの少しだけ参加した後大急ぎで出ていく姿が描かれ、シングルファーザー生活が前途多難な事を示唆し、実際に仕事と子育てに悪戦苦闘する主人公は典型的な「駄目な男」である。2020年現在の日本では男は仕事も家事育児もバリバリやらなければならないのであるが(なぜそうなってしまったかはここでは言及しない)、それはともかく、主人公は結婚を経験し子供もいるため「地味で平凡でうだつの上がらない」とはちょっと違う。しかし前述のような主人公の苦労を見せられる事で読者は自然と感情移入でき、そんな主人公はなぜか会社の社長(前社長の娘)、同僚、娘の保育園の保母といったヒロイン達から熱い視線を向けられる。なぜならシングルファーザーとして娘の事を第一に考え行動し、行動した結果失敗も多くする主人公にヒロイン達は温かな父性を感じ、しかし主人公は実際の父ではなく一人の男なのだから男女の関係になっても問題ない、むしろ温かな父性を秘めた人間であるにもかかわらずフリーである事にヒロイン達は気付き、その気になってしまうのであった。しかし主人公は育児でそれどころではない。そうするとヒロイン達は徐々に大胆となっていくのである。
ラブコメの手法に「女(ヒロイン)側がその気になっているのに男(主人公)側が全くその気にならない、或いは全く気付かない」がある。本来であれば男側があらゆる犠牲を払ってでもその愛を手に入れようと画策するほどの上等・高貴な女(ヒロイン)が、逆に男を振り向かせようと画策する、しかもその男というのが「地味で平凡で何の特徴もない」男(=読者)である、という落差とその状況が主人公(=読者)の地位を暴騰させ、深い満足を生むのである。本作の、手のかかる幼い娘を抱えているというハンディキャップがある主人公の気を引こうとするヒロイン達の姿は主人公(=読者)存在価値を飛躍的に大きくし、またそのようなヒロイン達の色気にあてられ、子育てで女の味を忘れていた主人公もまた性交渉ができるまで男の機能を回復するのであり、その回りくどさも快楽のスパイスとなっているのであった。
とは言え作者は女性であるから、主人公は最後のところで「駄目な父親」ではなく「娘を見守るかっこいいパパ」となってしまう。それは女、つまりかつて父親に守られていた娘の限界であろう。しかしラブコメとして成立している。素晴らしい。
「(性交渉後に保育園に迎えに行ったら)パパからヘンなにおいする」
第8位:ヤンキー娘になつかれて今年も受験に失敗しそうです/ジェームスほたて[少年画報社:YKコミックス]
何度も繰り返すが、ラブコメの主人公は「地味で平凡、平均以下、うだつの上がらない」でなければならないから、積極的に動いてはならない。即ちストーリー展開を自分から主導し引っ張ってはならない。しかしそれでは話が進まないため主人公の代わりにヒロインが動き回り、波乱を起こし、主人公(=読者)はその波に翻弄される事になる。とは言えただ流されるだけでは主人公が主人公たる意味がないのであって、流されつつ、積極的に出ず、しかしストーリーの中心にいるために「ヒロインが主人公を好んでいる、愛している」事が必要となる。そうすれば積極的に動き回るヒロインの存在感が高まれば高まるほど、そのヒロインにとって特別な存在、或いは行動原理の中心にいる主人公(=読者)こそがストーリーの中心となるのである。
というわけで本作であるが、しがない浪人生の家に突然ヤンキー娘ヒロインがやってくる、そして瞬く間に童貞を奪われる事から物語が始まる。一方でヤンキー娘に比べれば清楚だが、ミステリアスで妙に積極的なヒロイン(予備校の特別講師?)が真摯に自分をサポートしてくれる。夜にヤンキー娘は毎日のようにやってきて主人公の気持ちを知ってか知らずかなぜか性交渉へと至り、昼は昼で清楚ヒロインによって励まされる(「誰からどう見られたって堂々としてればいいんです。主人公さんはやればできるんですから自信を持って下さい」)。二人のヒロインによって主人公(=読者)はひたすら流され、戸惑い、誘惑に負けて性交渉に陥り、実は同一人物(という事が読者には何となくわかる)なヒロインによって主人公の浪人生活は休まる暇がないが、灰色の浪人生活を送っていた主人公の生活はヒロイン達の一挙手一投足によって躍動感が生まれる。それは読者にとって潤いとなる。誰しもバラ色の青春を送りたいものだが現実はそうはいかない。ところが読者と一体たる主人公には二人のヒロインがやって来るのだ。大学受験に失敗した浪人に、である。それは救いでもある。ラブコメとは「都合のいい」ものだが、灰色の青春しか送れなかった読者にとって救いでもあるのだ。
しかしながらメインヒロインたるヤンキー娘が主人公に対する態度を明らかにしないのが物足りない。3巻まで読んだ限りでは一体このヤンキーヒロインが主人公をどう思っているのか、好きなのかそれとも身体だけの関係と割り切っているのかがわからない。しかし勢いによって身体は開き続けるのであり、主人公(=読者)にとっては「身体だけの関係で遊ばれているだけ」という不安が拭えない。最もそのような勢いがあるからこそ「突然やってきて童貞を奪う」などという荒業ができるわけであり、主人公はダブルヒロインの狭間で漂うという貴重な経験ができるわけだが、一方でヤンキーヒロインとの宙ぶらりんな関係を引きずっているため清楚ヒロイン(妙に積極的なヒロイン)との関係も打開できないのであり(「口説けば落ちるかもしれませんよ?」「僕とヒロインさんは今、講師と生徒なわけで…そういうのよくないし…それにヒロインさんは自分をもっと大切にして下さい」「あらあら、月並みなセリフですね」)、しかし両ヒロインは結局同一人物なので読者としては振り上げた拳の戻し先に困るのであった。つまり、それほどまでに本作に引き込まれてしまっているわけであり、結論として本作は優れたラブコメなのである。
「二人きりで花火までしたのに…ただの先生と生徒なんですか?」
「主人公さんだからいいって言う人もいると思うんですけど」
第7位:スポイラー甘利/浦津ゆうじ[講談社:ヤンマガKC]
ただのラブコメ漫画に小難しい事を述べているわけだが、本作については必要ない。「読めば確実に面白い」とさえ言えばそれで事足りる。とは言え「どこが、なぜ面白いか」についての解説は必要であろうが、ここでまた小難しい事を言ってしまうと本作の魅力が半減するかもしれない。なぜなら本作は「ただの高校生男女がただの高校生活を小難しくひねくり回す」事に最大の魅力があるギャグ漫画だからである。
そしてギャグ漫画であってもラブコメは成立する。ヒロインが「品行方正成績優秀、生徒会副会長、名実共に学園のアイドル」であるのに主人公は何の特徴もないただの男子高校生(「ヒロインはお前なんかと同列に語れる存在ではない」)であり、しかし二人は付き合っているのであればそれでいい。この点に関しては小難しい条件はいらないのである…というわけでなるべく本作の魅力が半減しないように書くと「ヒロインである彼女が主人公をスポイルする、つまり甘やかす、それも度を超えて」が基本的な話の流れである。しかしギャグ漫画であるからその甘やかし方は回りくどく小難しく、
・「ずっと寝ていたい」と言えばコールドスリープ状態にさせられる。
・「手作りの弁当が欲しい」と言えば寿司職人のロボットを作る(「昨日徹夜で作ったの」「手作りってロボットをかよ!」)。
・テスト期間中にアニメを観てしまった主人公。しかしなぜか問題が解ける。
ヒロイン「アニメやゲームにサブリミナルを仕込んでおいたの」
主人公「洗脳じゃねえか!」
・主人公「近所の森はオオクワガタがよく出るんだよ。それを売り捌いて大儲けだぜ」
ヒロイン「メスのオオクワガタのグラビアを撮ってるの。森に置いとけばオスのオオクワガタが集まるかなって」
主人公「エロ本に群がる中学生か!」
ヒロイン「モデルの子は100匹の中からオーディションで選ばれたの」
主人公「そいつら捕まえてこいよ!」
等、等、といった調子で、ヒロインによって次々に奇抜な場面や人や物がコマ内に所狭しと展開され、主人公がツッコミ役となる形式は「マカロニほうれん荘」(2001・22位)を彷彿とさせる。またそのように「次々に奇抜な場面や人や物を呼び寄せる」ヒロインの行動の源泉は「彼氏である主人公をスポイルする」事に端を発しているのであるから、主人公(=読者)が振り回され散々な目に遭ったとしても、読者としては悪い気はしない。むしろ仕掛けが大きければ大きいほどヒロインの過保護ぶり・主人公への特別な好意を感じる事ができ、結果的にギャグとラブコメがうまくリンクできているのであり、ラブコメとしてもギャグ漫画としても大いに楽しませてもらった。
しかし一番面白かった(声を上げて笑ってしまった)のは「ヒロインが開発したRPG」であった。その素朴な絵と相反した小難しい設定(「日照権の問題だった!」「干す場所変えろや!」「よく見たらタワーマンションじゃねえか!」「完全に建築業者の人だ!」)がたまらない。作者はもしかして天才ではないか。
第6位:とっても優しいあまえちゃん/ちると[富士見書房:ドラゴンコミックスエイジ]
マンネリ、ワンパターン、お約束、等の「何度も何度も同じ事をやる」「進展も破壊もない、ただ予定調和的に一連の流れが起こり、やがて終わる」という形式はラブコメにとって欠かせない。環境が変わり時代が変わり、人の心も移り変わり、それらについていけない人間はただ落ちこぼれるだけ、ではあまりにも辛く悲しい。とは言えこの弱肉強食のグローバル経済の中で沈みゆく日本国の日本人としてはイエスもノーもなく変わり続けるしかないが、それではあまりにも救われない。そこで「癒し・救い」としてラブコメが必要になるのであって、「地味で平凡で落ちこぼれる寸前(或いは既に落ちこぼれている)」な主人公(=読者)をヒロインは救い、癒すのである。
その「救い、癒し」には性的な要求に応える事も含んでいるが、昼夜問わず性交渉を行う事には限界があり、また肉体的な繋がりは快楽という即物的な成果物とイコールであるから、繰り返す事によって特殊性が失われ、浅くなってしまう。やはり精神的な繋がり、つまり愛情があってこそ肉体的な快楽もより深く広くなるのである。
そこで本作であるが、もちろん主人公とヒロインの間に性交渉的な事は行われない(ヒロインは小学生である)。しかし駄目人間である主人公(大学受験に二度失敗、漫画家を目指して上京するもろくに漫画を描けない)に対してヒロインはなぜか優しい、いや慈愛の心で接してくれるのであり、小学生でありながらその豊満な胸を(服越しではあるが)惜しみなく主人公(=読者)に差し出し、主人公はその胸に甘えるのであった。その「豊満な胸に甘える」パターンはまさにワンパターン、マンネリなのであって、
①主人公がとにかく何か(漫画を描く、ダイエットをする、バイトをする)を頑張る
②くじけそうになるがヒロインのために頑張る(と決心する)
③しかし駄目人間なので失敗する、道半ばで終わる、予期せぬトラブルに巻き込まれる
④それでもそこまで頑張った主人公のためにヒロインは胸を開く
が延々と続くのであるが、そのように延々と続く事で「このヒロインは主人公(=読者)がどんなにくじけても必ず主人公(=読者)の味方になる、更にその胸で主人公(=読者)を包み込んでくれる」を読者は心置きなく味わう事ができ、癒されるのであった。もちろんそのような振る舞いをするヒロインにはそれ相応の理由が必要となるが、ヒロインはまだ小学6年生であるから、「駄目人間である主人公を甘やかす事で自分もまた満足している」といういびつな共依存関係を穏やかな関係に転化した上で理由として成立させている。最もそれは長所であると同時に短所でもある。小学生であるヒロインはあくまで純粋で無垢であり、「いびつな共依存関係」的な生臭い匂いは感じられず、それが結果的に主人公(=読者)が何の躊躇もなくヒロインに甘える事ができる…につながるが、しかしその純粋無垢な愛によってその先(性交渉等の、今後の関係に圧倒的な変化を与える行動)に進む事ができないという矛盾となり、結果としてワンパターンをグルグルグルグルと回し続ける事にならざるを得ない。本来ならばその聖母のごとき愛を性交渉等の肉体的な表現に体現する事こそラブコメの本分なのだが、そこまでできないのが本作の限界であった。
しかしいいものはいい。どこまでもグルグルグルグルと回ればよい。現実世界で常に傷ついている我々にはもっと癒しが必要なのだ。
「今日のお兄さんはいっぱい頑張ったから、赤ちゃんに戻っちゃうほどいっぱいよしよししてあげるね」
第5位:純情うさぎ屋酒場/佐野タカシ[少年画報社:YCコミックス]
とにかく窮屈な世の中になった。あらゆる事に理由が求められる世知辛い世の中になったが、もちろん万人が納得する理由など存在しない。そもそも世の中というのは不思議で不条理なものなのだ。にも関わらず全ての企業及び個人には「説明責任」が求められる時代となった。その病理は2次元のフィクションにまで及び、「なぜ最初からこのヒロインは主人公に好意を持っているのか。女性蔑視ではないか」「なぜこのヒロインはこんな主人公に惚れるのか。女性蔑視ではないのか」、等、等と問われる。しかし質問者達を納得させられる答えはない。ラブコメとはそういうものだからだ。
更に言えば世の中には人と人の出会いというものがある。男と女が偶然によって出会い、いつの間にか惹かれ合うという事がある。即ち運命の出会いというやつで、北海道からやって来たヒロインは運命に導かれて東京の下町の小さな居酒屋で働く主人公(大学を中退して親がやっていた居酒屋を継いだ)と出会うのであり、運命、赤い糸によるお導きであるからいつの間にか相思相愛となるのであった。そしてそのヒロインは2次元のセオリーに則って「美人、巨乳、男あしらいもうまい、結構なヤキモチ焼き」であるから、これほど都合のいい話はないが、運命、見えない赤い糸に導かれて二人は相思相愛になってしまったのだから、身体を結べば結ぶほど二人の世界と絆は強固になり、そこに「昔ながらの下町」「常連だらけの小さな居酒屋」という舞台がプラスされ、より盤石且つ濃密になるのである。
そのため本作は「地味で平凡で何の取り柄もない男(大学のレベルに頭がついていけなかったから逃げ出しただけ)」に「美人、巨乳、男あしらいもうまい、結構なヤキモチ焼き」なヒロインがやってきた、ではなく「地味で平凡で何の取り柄もない男」はこんな「美人、巨乳、男あしらいも」云々なヒロインと赤い糸で結ばれていた、という構造となり(ヒロインの祖父と主人公の祖父が知り合いだった)、濃密な性交渉(風呂場で性交渉、ウェディングドレス姿で性交渉、娼婦のような下着で性交渉、喪服姿で性交渉、他)が描かれていても淫猥さがない。代わりに「愛の時間」とでもいうべき甘美な雰囲気が発生し、しかしその甘美な時間を享受できるのは「大学のレベルに頭がついていけなかったから逃げ出しただけ」な主人公(=読者)であるから、結果的に本作は立派なラブコメとなる。正ヒロインのおかげで主人公が急にモテだすのもラブコメのセオリーに則っている。
また本作は「懐かしい」作品でもある。昭和30年代や40年代の中間小説、或いはホームドラマ的な雰囲気が全体に漂っている。戦後昭和の日本人は「運命の出会い」を素朴に信じていたのであり、例え「地味で平凡で」云々な男に「美人、巨乳、男あしらいも」云々なヒロインをぶつけたとしても「まあそういう事もあるさ」「そういう事もあっていいじゃないか」とごく自然に受け入れていたのであり、本作の「見えない赤い糸に導かれて相思相愛になってしまった二人」の物語はその大らかだった時代を連想させよう。それは世界が羨む一億総中流の経済大国を作った日本人の良さの一つだったはずだが、今や全てが変わってしまった。世界のラブコメ王たる俺だけがこの世界を守り続けよう。
「悪ぃじゃない!遅いにもほどがあるっしょーっ!」
「だば電話ぐらいすればいいべさ!」
「なしてさっ、なして?心配するっしょ!」
「主人公のどんけ!すっぺさがり!」
第4位:漫画家アシスタント三郷さん(29)は婚活中/さとうユーキ[双葉社:ACTION COMICS]
世の中には、いや人生のある局面においては、深く考える事なく勢いだけで突き進んだ方がいい時がある。思えば俺も図書館関係者でも何でもないのに勢いだけで図書館大会に潜入した事があった。その時はずいぶんと気まずい思いをしたが、後から思えばまあやってよかった。とは言え普通の一般人(俺は一般人ではないので)が勢いでやる事の最たるものは「結婚」であろう。好いた惚れたでは長い長い人生を乗り切る事はできない。仕事が馘になったら家のローンはどうするか、親の介護は誰が面倒を見るか、墓の費用・手入れは誰がするのか、子供が不良になって学校の同級生を怪我させたらどうするか、或いは自分が認知症になったらどうするか、等、等。背に腹は変えられぬ、一人で生きていく事はできない、自分は美男美女でもなければ優れた頭脳も持っておらず強靭な肉体も持っていない、となれば目の前の女(男)と共に歩むしかあるまい、ええいやってまえ…である。
最も90年代まではいかに適齢期の男女と言えどもそこまで露骨な打算はなかった。戦後の長い間の日本の繁栄は適齢期の男女を守り、会社も小さなムラ社会として従業員を守り、年功序列の保証された生活で妻は専業主婦として家庭の面倒を見ていればよかった。だから男も女も年頃になれば(20代中盤~後半になれば)何となく結婚できたのだが、時代は変わり安定した日本社会、小さなムラ社会は崩壊する。女は総合職キャリアウーマンとして男と対峙し、二次元の大洪水がやってきて男はエロゲーに女はボーイズラブに傾斜する。そして結婚できない、結婚したくない男女が大量に発生する。しかしこれからの長い人生を誰にも頼らずに一人で生きていく事は難しい。特に弱肉強食のグローバル経済下の日本では精神的にも肉体的にも経済的にも社会的にも一人で生きていくのは大変な事である。そのため血眼になってパートナーを探す「婚活」が当たり前の時代となったが、世の中は常に競争である。年収がいい、顔がいい、その他優秀な特徴を持つ男に群がる女達は競争に敗れ、しかし敗れた女達は立ち止まる余裕もなく次なる獲物を狙い、また敗れ、時だけが過ぎていくのである。
というわけで前置きが大変長くなったが「婚活」に必死なヒロインは偶然と運命によって売れない漫画家主人公(33歳独身)のアシスタントとなるのであり、その漫画家とゴールインしようとアシスタントそっちのけでただ勢いのままに主人公を引っ張り回すのであったが、何せ「先生(=主人公)の「人生」のアシスタント希望です!」「徹夜で原稿、男女が深夜に2人で必死に頑張る、これはもうセックスですよ」云々の言葉が毎回湧き上がり、積極的というより獲物を狙う獣のごとき迫力がある。とは言えラブコメとは「ヒロインが主人公に一方的に好意を抱いている」ものであり、ただ打算や世間体のためにヒロインが主人公(=読者)を我が物にしようとするのであればそれはラブコメではないが、そもそも主人公は売れない漫画家であり(「33歳にしては貯金…少なくないですか」「お人好しでクソマジメ」)、どう考えてもそのような主人公と結婚したところで婚活界(?)においては負け組である。しかしヒロインはそんな事はお構いなく勢いに任せて主人公を射止めよう(?)とするのであり、主人公の周りに自分以外の女の匂いがすれば暴れまわり、主人公(=読者)は戸惑いと反発を抱えつつもヒロインの勢いに押され、実はヒロインが「もともとあの人(=主人公)の漫画のファンだった」「漫画と本人が超面白い人だった」「一緒にいて楽しいし」「ちょっぴりかっこいいので」と思っていたから「私は先生(=主人公)を選びましたよ」と急展開になって、世俗にまみれた「婚活」ストーリーはいつの間にかラブコメに変わったのであった。まさに勢いだけのジェットコースターストーリーが本作であるが、これはこれで大いに楽しめたので良しとしよう。「漫画家嫁恵美さん(30)は新婚中」も是非見たい。
第3位:早乙女選手、ひたかくす/水口尚樹[小学館:ビッグコミックス]
もちろんラブコメは「地味で平凡で目立たない青年」或いは単純に「うだつの上がらない男」を主人公とするのだから、スポーツ全般とは相性が悪い。主人公がスポーツに励んでいて、且つラブコメとして認定された作品は以下のようにわずかしかない。
・「彼女はデリケート!」(2002・20位)
・「ガールズザウルス」(2004・12位)
・「Bite!グリーンを狙え」(2010・3位)
面白い事に上記3つはボクシング、ボクシング、ゴルフと個人プレーのものであった。もちろんそれには理由があって、野球、サッカー、バスケといったチーム主体のスポーツだと「チーム」が主となるため主人公自体よりもチームを構成するそれぞれの人物の物語となり、その結果主人公の存在感・地位が低下するためそもそもラブコメには向かないのである。ラブコメか否か以前に主人公(=読者)の存在感や地位が低下するものなど論外である。
というわけで本作の主人公はボクシングを選んで高校生活を送るのであるが、一般的にボクシング選手と言えば筋肉隆々でありながら引き締まった身体を備え、その闘争心を隠さず憎まれ口を叩くなどのパフォーマンスをこなし、女遊びも派手で…というオタク的、ラブコメ的人間からすれば全く別世界の人間であるが、本作の主人公は痩せ型ではあるもののチビでどこかオドオドしており、いつも鼻に絆創膏を貼っている顔がいかにも「弱っちい」感じを醸し出し親しみが持てよう(「もうボクシングやめようか思てるねん。体力もないし運動神経も全然あかんし…」)。そしてそんな主人公に「好きです、私と付き合いましょう」と告白するヒロインは「容姿端麗、学業優秀、常人離れした身体能力」の女子フェザー級王者であり、ラブコメのセオリー通り主人公に対し常に積極的でありながらも主人公の一挙手一動に戸惑う初々しさも描かれ、主人公が不安な状態にあれば主人公に寄り添い、また主人公の応援を得れば二倍三倍の力を発揮するのであった。つまり主人公(=読者)はいつの間にかヒロインの将来を生かすも殺すも自分(=主人公=読者)次第という特異な地位を確立しているのであった。
ラブコメのヒロインは力強く、凛々しく、またエロくなければならない(とは言え本作のヒロインにエロは期待できない)。しかしその「力強く、凛々しく、エロ」は主人公(=読者)との関連性で発揮されなければならないのであって、主人公とは関係なくそのような輝きを出すのであれば主人公の存在理由はなくなり、それは主人公(=読者)がヒロインから捨てられる可能性がある事を意味する。本作で言えば片やオリンピック選手候補で片やチビで絆創膏のボクシングオタク(?)であるから主人公の地位はないに等しいが、一方でヒロインは主人公(=読者)のサポートがあるからこそ輝くのであり、その実態を作中で繰り返し強調し、それによってヒロインもまた「主人公(=読者)がいてこそ、自分は輝く事ができる」と認識した時、二人の関係は人生の共同伴走者として盤石になる。離婚率が上昇を続ける昨今において(その歴史的・社会的背景等については触れないが)、今や男(夫)は常に女(妻)のために奉仕し、且つ自分を磨かなければならず、それを女(妻)は当然としか思わない時代となった(その歴史的・社会的背景等については触れない)。本作はそんな不安な風潮を吹き飛ばす痛快な作品なのである。
「こんな時、そばについているのが彼女ですよね、でも主人公君がいるから強くなったって、証明しようと思ったらもう練習したくて…」
「うちの彼女は最高やあ~!」
第2位:センパイ!オフィスラブしましょ/緑青黒羽[KADOKAWA:DENGEKI COMICS NEXT]
ラブコメのヒロインは積極的であればあるほどよい。とは言え露出狂染みた変態であってはならないし、イケメンであれば誰でもいい・棒であれば何でもいいという色気違い女ではいけない。「ヒロイン→主人公(=読者)」の関係が前提にあり、且つ主人公(=読者)に対してだけその積極的、或いは痴女的なアタックが発揮される事を作中で読者に繰り返し説明する根気が求められる。
また一方的に強引に好意を押し付けられるというのは「地味で平凡な主人公」、つまり周囲の目を気にしてしまう気の小さい主人公(=読者)にしてみれば大変な戸惑いとなる。そのような戸惑いを主人公(=読者)が感じている事をヒロインが十分知りつつもアタックを続けるのであれば、もはや主人公(=読者)はヒロインに対し戸惑いどころか迷惑とまで感じてしまうかもしれない。つまり最悪のケースとしてヒロインは主人公(=読者)に嫌われる可能性もあるわけだが、それでもなおヒロインが主人公(=読者)へ好意の押し売りをやめないのはそうせざるを得ないほどに主人公を愛しているからであり、それほど情熱的なヒロインは二次元のセオリーに則って「美人、巨乳、性格もいい」等のパーフェクトウーマンなのだから、「彼女いない歴イコール年齢の俺には圧倒的に経験値が足りない」な主人公は抵抗しつつも徐々にヒロインに惹かれてしまうのであり、ヒロインのやる事為す事がかなりエグくても(「もちろんセンパイといけない関係になる事ですよ」「今ここで皆さんが戻って来たら既成事実待ったなしですね」「この席は他の席から見えない位置にありますから」)、絵柄自体はかわいらしい愛らしいタッチ描かれているのでヒロインの具体的な行動によるエグみが消え、ただ「ヒロインが自分に言い寄ってきた」という印象のみが残り、ちょうどいい読後感となるのであった。
とは言えヒロインの狙い通り思い通りになってしまっては主人公(=読者)はヒロインの思うつぼとなり、ヒロインの支配下に甘んじる危険性がある。そこでラブコメでは「ヒロインが主人公に対して誘惑その他の積極的な行動を取る」と同時に「主導権をヒロインに握らせない」事で主人公(=読者)が優位に立つという方法が取られる。もちろん優位に立つと言ってもトレンディドラマのようなあからさまな恋の駆け引きなどはないが、主人公は鼻の下を伸ばしながらも最後には踏み止まるのであり(ヒロインのドジっ子ぶりに助けられる事も多々あるが)、しかしページをめくればまたヒロインの誘惑その他の積極的な行動がやってくるのであって、読者はヒロインから湧き出る剥き出しの愛情、「地味で平凡な主人公」たる自分には一生縁がないと思われていた「美人、巨乳、性格もいい」な女からの誘惑その他を繰り返し繰り返し味わう事ができるのであった。
また尖った部分を感じさせないマイルドな丸っこい絵によって「痴女気味な行動を取るヒロイン」でありながら「痴女」が持つエグさ、汚らしさを取り除く事にも成功しているが、もちろんこれは偶然の産物である。しかし偶然であれ何であれ優れたラブコメであれば評価してあれよあれよと2位となってしまった。それが日本ラブコメ大賞だ。
「私そんなに頭固くないですから、あ、センパイは固くていいですけど」
第1位:高2にタイムリープした俺が、当時好きだった先生に告白した結果/ケンノジ・松元こみかん・やすゆき[スクウェア・エニックス:ガンガンコミックスUP!]
言うまでもなくラブコメとは夢物語である。「地味で平凡で何の取り柄もない男」でも「美人でかわいくてスタイルも良くて文句のつけようのない女」と恋愛関係になる事ができるという夢物語であり、そのような「ありえない」設定をいかにしてもっともらしく、自然に、或いは既成事実として取り繕うかが重要であり、設定自体は突飛なものでもよい。「なぜかわからないが一目惚れした」でもいいし、「変な薬を飲まされて(或いは変な手術を受けさせられて)好きになってしまった」でもいい。「前世からの因縁でそうなってしまった」というのも可であるが、絶対やってはならないのは「主人公から告白する」である。それでは「地味で平凡で何の取り柄もない男」という前提自体が崩れてしまう。ところが本作はそこから始まり、しかし1位になった。
話は変わるが、誰しも今の知識、度胸、行動力などを備えたままで過去に戻ってやり直したいと思った事があるはずだ(俺もある)。未熟だったあの頃、幼かったあの頃の自分の恥ずかしいふるまいを思い出し、ああすればよかったこうすればよかった、しかしあの頃の自分は未熟で幼かったからああするしかなかったのだ、とは言え今の自分、今の知識、度胸、行動力を持った自分ならばあんな間違いは犯さない、ああ、今、あの頃に戻れたら…という夢物語が叶ったのが本作であって、27歳の主人公は17歳にタイムスリップするが中身は27歳の意識のままなのであった。
27歳の社会人としてそれなりの経験を積んできた身からすれば高校生活などおままごとの世界であり、そこにやって来る24歳の女教師ヒロインも所詮は自分より社会人経験が少ない年下でしかなく、かつて憧れ、真剣に恋していた女性が年下となって自分の目の前に現れたという千載一遇のチャンスを前に主人公は告白し(と言っても「す、好きです」と言っただけ)念願が叶うのであり、まさに夢物語である。ラブコメが絶対やってはならない「主人公から告白する」も、「27歳の自分が後悔していた(女教師ヒロインに告白できなかった)事をやり直したに過ぎない」という事で許容できよう。これこそ設定の妙、フィクションの醍醐味である。
そのようにして主人公は年上且つ年下の女教師ヒロインを相手に「職員室でこっそり筆談、手作りの弁当をこっそり食べさせる、準備室でこっそりキスする」等のうるわしい青春時代を送るのであり、もともと子供っぽく甘え体質な女教師ヒロインは年下でありながら年上のような落ち着いた言動の主人公(=読者)を前にして更に子供っぽく甘え体質となり、主人公(=読者)は「年上の彼女に甘えられている」且つ「年下の彼女に甘えられている」という二つの体験を同時に味わい、極上の青春を味わう事ができるのであった。素晴らしい。カレーにラーメンに親子丼にアイスクリームもコーラもついたような完全フルコースのラブコメ作品であった。
「主人公君!オシャレでちょっと年上のキレイなお姉さんと、ずっとこんな事してたんでしょ!」
「え?何?」
「膝枕しながら、手作りのお弁当を食べさせられたり、毎日イチャイチャラブラブで、キスもいっぱいして…その女、おっぱい大きかったんでしょ!」
「その状態ってむしろ今なんだけど…」