本の雑誌 1992年8月号(浴衣蚊さされ号)[本の雑誌社]

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 やはりマニアとかオタクだけのための雑誌が世の中には必要なんである。限られた人間だけがその面白さをわかる空間というか世界というか、そういうものが必要なんである。なぜかはわかりませんがそういう狭い世界って楽しいじゃないですか。老若男女誰もが楽しめて誰もが親しみを持てるようにするとなるとどうしても内容が当たりさわりのない薄いものになってしまって、それはまあそれでいいんですが、重箱の隅をつつくとか、華やかさも派手さもまるでないけども何か気になる何か面白いって事が世の中にはあるのであります。例えば「本屋で発売される新刊。あれは段ボールに詰められた状態で早朝にトラックが運んでくるわけですが、その現場を見に行ってみよう。出版流通の最前線の姿を生で見ておくのだ!」とか、「都心の路面にある小書店の書店員は一日をどのように過ごしておるのか!」とか、「出版社へお願い。その1、文庫の装幀をころころ変えるな!背表紙だけ変えるのはやめていただきたい、同じ作者のシリーズをずらーっと並べて悦に入る事ができるのが文庫の良さじゃないか! その2、いくらお相撲ブームだからって「はっけよいフェア」はないでしょう、文春さん。それと講談社は何かと言うとフェアに村上春樹を出せば良いってものじゃないでしょう。それに添え物のように西村京太郎をつけてくるのもよして下さい」とか、面白いじゃないですか。本好きじゃない人にとってはどうでもいいんでしょうけど。

 ところが今はインターネットその他でそういう「マニアのための、世間的にはどうでもいい知識、裏話、雑学」的なものが全部簡単に手に入るわけです。個人のホームページとかブログで、全くの趣味でそういうのをやっとる人が大勢いるわけですな(例えば「日本ラブコメ大賞」とか。えへへへ)。もちろん素人ですから文章は稚拙、プロの人達にはかないませんが、素人ですから別にそれでもいいわけです。「世間的にはどうでもいい話だけども発信したい、その『世間的にはどうでもいい』あれやこれやを面白いと言ってくれる人がどこかにいるはずだしそういう人達に面白いと言ってもらえたらそれでいい」という、よくわからん情熱だけはあるわけですから、読む人によっては面白いと思ってもらえたりするわけです(例えば「日本ラブコメ大賞」とかね。えへへへへへ)。

 だから「書店員の一日」なんて、今はもう、「本の雑誌」を読まなくてもどこかの書店員さんがブログかツイッターで書いとるのです。そしてそれは書店に多少とも愛着のある人であれば面白く読めてしまって、しかも書店員さんですから文章はそれほどおかしくないのです。そうすると出版社の人達も焦って「書店員の一日」を対抗して雑誌に載せたり本にしたりするわけですが、我々としてはもう無料で既に読んでしまっているわけですから、新鮮味はないし、「おおっ。これは新発見」みたいな驚きやときめきもないわけです。ところが本書は1992年のものですから、当然インターネットやブログはないですね。なので、先程から言っている「マニア向け」な情報というのは原則として雑誌や本からし仕入れられなかったわけで、今の時代とは密度が全然違うわけです。つまり雑誌側は「ほらほらこれがマニア向け情報だよ」と言って得意気になる→読者側は「ほうほうこれがマニア向け情報というやつか」でニンマリと笑うという、何だかわかんないけど楽しそうな関係というやつが成立していたのであります。これこそが「時代」でして、このような「時代」を見てしまうと今の時代に生きている我々は進歩しているのか退化しているのか迷うわけですが、しかし「本の雑誌」を読んでも真剣に「時代とは何か…うーむ」と悩む気が起こらんのはさすがでありますが(けなしているんじゃないよ)、そうは言っても本を愛する者として時には愛の鞭を放つのであり、「今の市場に出回っている(ミステリーの)既成作家の作品の多くは、どの新人賞でも、恐らく最終選考には残らないだろう。つまり、私達は今、一次予選通過クラスの作品を、金を払って読まされているわけだ」なんて言われたので思わず襟を正してしまいました(お前が襟を正してもしょうがない。そうですか)。

 更に「新刊めったくたガイド」(「めったくた」という言葉がいいですね)には当時の精鋭の書評家達がタメになる本を紹介しているので是非読んでみたいと思ったのですが、既に100冊以上の積読本を抱えている俺は迷うわけです。うーむ。