公共図書館の冒険 未来につながるヒストリー/柳与志夫・田村俊作編[みすず書房]

 何度か書いた事だが俺は司書になって図書館で働きたかった。そのため大学はわざわざ司書資格課程のある大学を選んで、司書資格を取るために夜間入学のくせに昼の授業にも出てずいぶんと嫌な思いもした。とは言えその図書館司書課程の授業で教授達は「図書館司書はただ黙って本の整理をすればいいのではない、あらゆる利用者のニーズに応えなければならない」「今後は本のみならず様々なメディア、特にコンピューターやインターネットを駆使して情報の専門家とならなければならない」「情報が社会を支配する中で、図書館司書は社会の先頭に立つ事になる」等、兵庫県糞田舎に生息する半ひきこもりの人間にとっては恐ろしい言葉を投げかけ、俺は早々に図書館司書の道を断念する事になった(但し司書資格は取ったので、俺は有資格者なのですよ)。
 それから月日は流れ俺も社会人・サラリーマンとしてそれなりの経験を積みつつ日本図書館協会の会員になったりこのブログやツイッターを通じて現役の図書館員の方とやり取りをしてわずかながらも図書館と関わりを持っているわけだが、一方で図書館の地位は低下し続け、日本図書館協会その他の図書館業界は地位低下に反発しつつも有効な対策が打てず現状に甘んじている…というのが「普通の図書館利用者・図書館好きよりも図書館全般について詳しい、しかし純然たる外部の人間」たる俺の印象である。しかしこのまま図書館の地位が低下し続ければ人口減と財政難によって図書館がなくなってしまう可能性も否定できず、それはかつて図書館で青春の一時期を過ごし、癒され、今もなお居心地の良さを感じて各図書館を訪れる俺にとって他人事ではない。
 しかしながら図書館は今や社会的に認知されている。どこの地方の市町村にも図書館は当たり前にあり、これらを廃止するとなれば、今まで当たり前にあったものが急になくなるのだから反対の声は上がろう。しかし例えば「図書館に係る経費・人件費を削減する」「民間に委託してコストを下げる」であれば逆に反対の声は上がらず「図書館が存続するためにはそのような事はどんどんやって欲しい」とすら言われる。なぜなら図書館を管理・運営する司書の重要性が認知されていないからであって、それについて今までは主に制度的な側面から言及されてきたが(司書は一定の授業を受ければ誰でもなれる、そもそも図書館長が司書資格を持っていなくてもよい、等)、本書第5章では「小説・漫画・ドラマ等で描かれた図書館員」について言及され、その中で図書館員は「本が好きなら誰でも楽しくできる」「司書資格を持っていて専門的な能力があるから務まるとは描かれない」のであり、そのようなイメージが図書館に詳しくない人間の目に触れ、再生産され、「それなら(司書など)いらない、人件費はアルバイト並みに安くていい」という考えに繋がるのも容易な事である。
 ではなぜ「(図書館の仕事は)誰でもできる」と一般の人々から見えるかと言えば、戦後の図書館サービスが「貸出サービス中心」となったからで(第6章)、図書館は資料(地域・郷土資料含む)の整理・保存、住民からの調べ物相談、といった専門性が必要なサービスよりも「貸出サービス」を優先するべきという考えが打ち出され(「中小レポート」「市民の図書館」等)、この思想・理念が業務運営においても効率的(「本を開架で揃えておけば後は住民が本を選択するだけであり、戦前のように書庫へ本を取りに行く手間はいらない」「本を借りるだけなら、閲覧室はいらない」等)であった事もあり、日本全国の各図書館で受け入れられ、図書館はまず第一に「本を無料で借りられる」ところとなった。しかしそうなると「図書館の仕事」イコール「本の貸し出し業務」と住民には映り、レンタルビデオの手続きやスーパーマーケットのレジと同じに思われる事も自然であった。そして「レンタルビデオの手続きやスーパーマーケットのレジ」と同じ(と思われている)であればそのようなものに売上を奪われている(もしくは売上を奪われる原因の一つになり得る)出版業界が黙ってはおらず、「無料貨本屋論争」となって地位の低下に一役買っているわけであるが、一方アメリカでは図書館大会時に「出版社が来場した図書館員に本を売り込んでいる」(第1章)ほどの図書館文化が花開いている。戦後日本の図書館(及び司書制度)がどこで間違えたかを考えなければならない時がそろそろ来ていると言えよう。
 しかし、繰り返すになるが、今の図書館は社会的に認知されている。なぜなら利用者は必要な本を必要な時に読む事ができ、それによって健康で文化的な生活を送る事ができるからである。もしくは「図書館」という空間で、日常の喧騒を忘れ、静かに時を過ごす事で、やはり健康で文化的な生活を送る一助となっている。図書館は必要なのである。しかし図書館に何を置いて司書は何をするのか(図書館及び司書がやらなければならない事)、図書館に何を置かないで司書は何をしないのか(図書館及び司書がやる必要のない事)を整理する事なく、ひたすら「貸出サービス」を推し進める事でここまで来てしまった事は否定できないのではないか。戦前において図書館は「図書」の館であり娯楽雑誌や大衆雑誌は読めず「雑誌回読会」などに頼るしかなかったし、「大衆に迎合する俗書(雑誌の他、小説や漫画)」は選書から排除されていた(第2章)。それが戦後は一転して「利用者のどんな求めにも答えなければなりません」となったはいいが、ではベストセラー小説やどんな種類の漫画も(俺がラブコメ大賞で言及するような「エロではないが、非エロでもない」漫画)全面的に受け入れるのかと言えば中途半端な状態で現在も図書館に置かれ、一部の図書館ではリクエスト制度の暴走といった事態にまで発展し、出版社が言いたい放題できる隙を与えてしまっている。一方で図書館における本の物流システム(書架に並ぶまで)は効率的に整備されたが(第3章)、その成功体験が身についてしまったのか、電子書籍・デジタルコンテンツへの動きは鈍い(特に地方の中小図書館)等、等、図書館のみならず経済・社会そのものが大きく変わろうとしている現在、図書館が「何をやろうとして、何ができて、何ができなかったのか」そして「何をしなかったのか」を整理してくれる本書は、必ずや未来の図書館のヒントとなるだろう。