罠から逃げたい/パーネル・ホール[早川書房:ハヤカワ文庫]

罠から逃げたい (ハヤカワ・ミステリ文庫)

罠から逃げたい (ハヤカワ・ミステリ文庫)

「おいでなすったな」スタンリー・ヘイスティングズは俺の顔を見るなりそう言った。俺がドアを開け、ヘイスティングズは俺を見た。と同時に言ったのだ。
「何がだ」
「おいでなすったな」
「それはもう聞いた」
「じゃあいい」
 どうやら機嫌が良くないようなので、アメリカ人がよくやるように両手を上げて「俺ほど安全な男はいないって」と言う事にした。
「は?」
「いや、この前の事件で、君がそう言ったらしいから」
「どの事件?」
「ええと…君が撃たれたやつじゃなくて…何だったかな、総会屋のおっさんが突然やってきたとかいう…」
「総会屋?」
「総会屋…じゃないな、うん。ニューヨークに総会屋はいないな。あれだ、投資会社の副社長がやってきて…ハニートラップにかかったから調べてくれとか…」
「ハニートラップじゃない。ただバーで女と飲んでただけで、その女を調べたんだ」
「それそれ、その事件の事を書こうと思うんだよ」
「楽しそうだな」
「そりゃ、人の不幸ほど楽しいものはないからね」
「それで…どうやって書いたらいいか聞きにきたわけか」
「聞きにきたんじゃない。相談に来たんだ」
「君には借りがあるから断りはしないが…読んだんだろ、本は」
「読んだよ。実家に帰る時に、新幹線でゆっくりと。でも俺は文章を書くのが下手だし、面倒臭がりだし」
「それでよくブログを10年以上も続けてこれたもんだ」ヘイスティングズが感想を述べた。「他に諸々の素質が備わっているからいいようなものの」
「いつになったら、俺のブログが閉鎖するかしないかって話が出なくなるか知りたいね」
「言い出したのはそっちだぞ」
「有罪を認めるよ。実を言うと、俺も少々疲れているんでね」
「じゃあ、君はここへ来るべきじゃない」
「他に行く場所はない」
「おい、はっきり言ったらどうなんだ」ヘイスティングズはついに嫌な顔をした。「君も事件を抱えているんだろ」
「その通り。そこで数々のピンチを切り抜けてきた、天才的私立探偵の英知をね」
「『天才的に不運な私立探偵』だろ」
「誰がそんな事を」
「忘れたのか。前に君が言った」
「足元をすくわれそうなんだ」俺はようやく椅子に座った。「それも、10年以上やっているブログのせいでね」
「楽しそうだな」
「ちっとも楽しくない。それに、大体の事はもう聞いているんだろ、あのマコーリフとかいう刑事経由で」
「殺人事件の被害者が男の場合、犯人の9割方は、その女房なんだ」
「それもマコーリフから聞いた」
「じゃあ話は早い。事件を解決するのさ。警察が頼りにならないんなら、君の手で」
「だからここにやってきたのさ。君にアホ呼ばわりされるのも承知で」
「アホ呼ばわりじゃなくて、現にまるっきりのアホだ」
「ほら、それだ」
「すねるな。簡単な事じゃないか。君は犯人じゃない。という事は君以外の誰かが犯人だという事だ。後はその犯人を見つければいい」
「なるほど。その犯人を見つける事がどれだけ簡単か、教えてくれるかい。1時間20ドル払うよ」
「簡単な事さ」ヘイスティングズは言った。「君のあのブログを使うのさ」