90年代の証言 野中広務 権力の興亡/五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行 編[朝日新聞出版]

野中広務 権力の興亡 90年代の証言

野中広務 権力の興亡 90年代の証言

 

  「政治家の自伝は難しい」と前回書いたが、では政治家のオーラルヒストリーはどうかと言えばこれも難しい。もちろん自伝と違ってインタビュアーがいるわけだから独りよがりの自慢話にはならないが、「自分を正当化する事を生業としてきた百戦錬磨の政治家」に対するインタビュアーはただの政治学者・歴史家・政治評論家等なのであって、「真実にせまる」「これまでになかった新事実」を引き出せるかと言えば、まあ期待できない。田原総一朗のような、ガンガン攻めていって新しい情報を引き出せる人間がいればいいのだが、田原のような人間が5人も10人もいるわけではないのだから、結局はその政治家が「今だったら話してもいい」という範囲内で「これまでになかった新事実」が出るだけの話である。

 もちろん、だからと言ってそのインタビュー等が無駄かと言えばそうとも言えない。「話していい範囲」の事柄にだって相応の価値はあるし、誰にでも墓場まで持っていく事の一つや二つはあるものだ。但し彼らは国民の税金によって仕事をしているわけだから、少なくとも公務については国民にできるだけ開示しなければならない。国家機密や外交案件に触れるならば30年後もしくは50年後に公開すればよろしい。

 どうも「政局好色」のようになってきたが、本書で証言している野中広務は90年代中頃から後半にかけての日本政治の主要人物の一人である。前回の「YKK」が活躍していた時期、地方議員からの叩き上げであり、57歳で初当選した遅咲きの苦労人であり、被差別部落出身で弱者の期待を背負った野中広務もまた活躍していたのであり、野中が属する経世会小渕派橋本派)・YKK・その他の勢力は「三角大福中」時代の派閥華やかなりし頃とはまた違った権力闘争を展開し、日本の政治はまだまだ余裕があった。しかし2001年に登場した小泉政権以降、政治は極端に「白か黒か」「勝つか負けるか」、そして気まぐれな世論に全てを委ねる殺伐とした世界に変質していくのであるが、本書後半ではその変質していく時代の渦中で野中がいかに悪戦苦闘していたかもよくわかった。「政局政治家」としての才能を遺憾なく発揮する小泉との戦い、そして経世会橋本派)内部の軋轢の実態は第一級の史料として言ってよい。かつて絶大なる権力を誇った野中も小泉との戦いに敗れ、政治の表舞台から寂しく去っていった。野中の師・竹下登はこう言った、「政治家は花束を持って迎えられ、石を持って追われる」。

   

野中 副知事としての仕事が終わったので、これからは重度障害者の施設に残った人生をかけようと思ったら、(中略)補欠選挙という事になったわけです。

 (竹下登に)私は「もう57歳ですよ。こんな歳なのに今から国会に行ってどうするんですか」と言うたんです。竹下さんは「俺は県会議員をやったが、地方自治体の理事者をやっていないから地方自治の仕組みを知っているようで知らん。しかし、ひなびた島根の痛みは体で感じている。ところが最近は周りを見ると、この苦しみや痛みを感じない二世、三世の政治家ばかりで、選挙区は地方でも本人は東京で育っているため東京以外の事を知らない。野中さんは町会議員をやり、町長をやり、府会議員をやり、副知事もやり、議員と理事者を交互にやってきた。あなたのような地方自治を歩んできた人間が国会にいなければこの国はおかしくなる。だから出てほしい」と言うんです。それでとうとう説得されたんです。

   

――野中さんは永田町でも情報通で知られていますが、一体どうやってあれほどの情報を集めるのですか。

野中 もちろん自分も努力しますが、一つは内部告発ですね。京都府議をやっていた頃からそうですが、権力に対して勇敢に闘おうとしたら、それに対する声援として必ず内部から情報が入ってきます。そして、その情報のウラを取るために自分も努力します。(中略)僕の経験では、誰が危篤だとか亡くなったというような情報は公明党共産党が一番早いですね。病院の中に党に関係している人がいるから、そういう人から情報が入ってくるんでしょうね。

   

野中 細川政権が誕生して野党になった時、自民党は本当に哀れなものでした。党本部は閑古鳥が鳴き、議員も職員もシュンとしていました。

――「55年体制」で政権にあぐらをかいてきた人は、きれいな横綱相撲しか経験がなくて、野党になった時の闘い方がわからなかったわけですね。

野中 そうなんです。地方政治で野党経験のある僕らが見直されるようになったのはこの時からですよ。細川政権を叩く事で、同時に自民党がやってきた負の部分も叩いたつもりです。

   

――(加藤の乱で)加藤さんの将来はないと思っていたんですか。

野中 将来がないとは思わなかったけれども、加藤さんは自分で自分をつぶしていくと思っていました。そして、このままつぶれたら再び立ちあがる事は難しくなるぞという気持ちが強くて、僕も古賀さんも泣いていましたよ。幹事長室で2人で「たまらんなあ」と言うてました。

――これが権力闘争というものなんでしょうね。

野中 そうかもしれませんね。

   

野中 (森政権の幹事長を辞めた頃)いずれ経世会がつぶれていくだろうという事は僕にはわかっていました。実権は青木さんが握っていたが、あの人は経世会の役員はしませんでした。しかし、経世会の役員会には必ず出席した。参議院自民党幹事長として出るわけですよ。そして、幹部会を開くと必ずあの人がいて、発言するわけです。

 (中略)青木さんは官房長官になってだんだん権力を持つようになってくると、役員会なんかでもグサッと発言するようになってきたんです。それが皆を威圧してしまい、誰にもものを言わさないようになった。僕は青木さんの下で参議院が従来の参議院とは違った状態になっていくのをこれでいいのかなと心配して見ていました。

      

――藤井さんが総裁選に出る事を派閥として支援する事に青木さんは反対したわけですが、こんな事は昔は許されなかったでしょう。

野中 そう、許されなかったですね。

――なぜ、そんな事になったのですか

野中 橋本さんにはね返すだけの迫力がなかったんです。

――かつての野中さんなら、裏の情報もちらつかせながら抑えこんだのではないですか。

野中 いや、負けるかもしらんけど、うちの派閥で決めた事と心中する以外にないと思っていました。青木さんと正面から闘う事はしなかったですね。

――それはなぜですか

野中 竹下さんの陣営の中で、青木さんと僕とは一番古い仲だったから、正面から喧嘩しようとは思わなかったな。青木さんは参議院議長を目指したらいいような人だ、僕は当選回数の少ない人間で、年を取ってから国会に出て、やるべきポストをみなやらせてもらった人間だから、去るべき時期を間違わないようにしようと思うぐらいの悟りきった心境だった。

――最後まで闘い抜いて、青木さんに勝とうとは思わなかったのですか。

野中 思わなかったな。僕は参議院の青木さんに近い連中から、「あなたが小渕政権の官房長官を辞めた時、後任に青木さんを選んだのが間違いなんだ。青木さんに力をつけさせたのはあなただ」とキツく言われた事がある。これが僕にはこたえた。