2 好感と親近感

第14位:KISS MY ASS/大見武士少年画報社:YKコミックス]

 何度も言うように主人公は平凡で普通でなければならない。そうでなければ読者は主人公に感情移入できないからで、だから「スポーツマンで体力にかけては自信がある」系の主人公が登場すればそれはラブコメではない。とは言え主人公が病弱であってもいけない(2002年1位「月姫」の主人公も病弱と言えば病弱だが、あれは例外)。では主人公が「痔」というのは…まあ平凡で普通の範囲内であろう。痔は平凡な人間であれば誰にでもふりかかる可能性があるのだし、大体痔になるのはうだつの上がらない男(つまり読者にとって感情移入しやすい相手)に決まっておるではないか。
 痔の話はこれくらいにして(何せ「誰にでもふりかかる」ものであるから自分も痔になるのではないかとややビビってしまう。一旦意識すると尻の辺りが何となく…)、本作では「痔」という、平凡な人間であれば誰にでもふりかかる病気をテコにして主人公とヒロインの関係を構築した事に特色がある。ラブコメとは「平凡な主人公」と「美人でスタイル抜群なヒロイン」が懇意になるわけだが、他人同士が懇意になるには理由が必要であり(平凡男と美人女なら尚更である)、その懇意になる理由は平凡で普通な主人公とっていつでも起こり得る偶然的要素が大きいものであればあるほど読者は主人公に感情移入できてよいのである。だから「幼馴染」や「小さい頃に結婚の約束をした」パターンより「偶然出くわした事件で知り合いになる」パターンが望まれるが、そのようにして話を作り展開させる事は非常に難しいのであって(そこを「一目惚れ」の一言で強引に押し倒す事もできるが)、しかし本作では「痔」というテーマを使い痔に研究熱心(尻穴の天使、ゴッドハンド)なヒロインは主人公に言い寄り、当初は「主人公」ではなく「主人公の痔」に関心があったヒロインは次第に「主人公」に心奪われていくという事でテンポよいものであった。
 ヒロインが主人公に言い寄るようになったのは主人公が痔になったからであり、とすれば読者は「俺も痔になればヒロインのような女から話しかけられる、彼女ができるかもしれない」というほのかな希望の予感を感じる事ができよう。ラブコメとは希望の物語なのだ。だからこそ、終盤で突然主人公が唾棄すべき爽やか青春路線に走ったり(「お前と友達でいたいんだよ」)せっかくヒロインを2人用意しておきながら修羅場も発生させなかった事が惜しい。総合的に評価すれば最下位となった。
  
第13位:いちばんのこい/桃乃助[少年画報社:YKコミックス]
 ヒロインが主人公に対して容易に身体を開くとしてもそこに愛情がなければならないのはエロ漫画だろうが非エロ漫画だろうが同じである(そうでなければ「ヒロインはただの淫乱」で話は終わってしまう)。だが非エロ漫画である以上はヒロインが主人公に身体を委ねるまでの「物語」が必要となる。「物語」とは即ちヒロインが主人公に身体を委ねる「理由」であり、本作の場合、各短編のヒロインは男に寄りかからなければ生きてはいけない弱さを抱えている事がその「理由」である。そこで地味・普通・平凡な主人公(=読者)に寄りかかってくるところにラブコメの救いを見つける事ができる。3次元の世界に生きる女どもなら強い男(イケメン、スポーツ万能、金持ち、明るく社交的、高学歴、等)を選び庇護してもらおうとするが(結婚相談所・婚活パーティー・合コンに群がるアレである)、2次元はそうではなくヒロイン達はなぜか主人公(=読者)へ身体を投げ出すのであり、最初は戸惑う主人公は身体を重ねるうちにこのヒロインが自分なしではいられない事に気付き、その有利な立場が快楽を増やし(この女は自分から俺を求めてきた→ならば多少俺が好き勝手にしても構わないだろう)、度重なる快楽の経験は男としての自信へと繋がりラブコメの本分である「救いと癒しと希望」へと繋がっていくのである。
 特に表題作に至っては主人公が「お前の好きなようにしろ」と言ったらヒロインは「じゃあ主人公と結婚する」と人生の一大事をいとも簡単に主人公(=読者)へプレゼントするのであり、それによって主人公(=読者)はヒロインの上に立つどころか永遠に優位を保つ事を確信するのであった。「ラブコメとは男が女の優位に立つ思想」という俺の持論を完璧に表現して頂き、3位以内に入ってもおかしくなかったが、「成年マークがついてないだけの、実質エロ漫画」の宿命で玉石混淆の短編集であるからその他の短編を含めた総合評価はこうなりました。世の中うまい事行きませんなあ。
 
第12位:魔法使いと弟子の不適切なカンケイ/紺矢ユキオ[アスキー・メディアワークス:DENGEKI COMICS]
 主人公を師匠にしてヒロインを弟子にするとなると主人公が上となりヒロインが下となり、ストーリー展開上どうしても主人公がヒーローになってしまう(つまりラブコメとして成立しない)ので難しい(日本ラブコメ大賞の長い歴史の中でも2001年20位「DOLL MATER」ぐらいしか見当たらない)。主人公を「とてもえらい魔法使い」「世界の運命を担っている存在」として尊敬と畏怖の対象に設定してもなお読者の信頼(「どしゃ降りの雨の中、動物がびしょ濡れだからと言って傘を差し出し、自分はずぶ濡れ」的な事は絶対にしない)と親近感を得るためには強烈な庶民性(家事全般まるで駄目、オクテもしくはドスケベ、貧乏人、等)を備えなければならないが、本作では強烈な庶民性とまではいかないがのんびりとしてとぼけた風貌をした主人公を提供してくれてはいるのでまあよかろうとなった。更に言えば「魔法」という、極めて特殊で非現実的な設定であれば「もしかすると自分にもそのような力がある日突然発生するかもしれない」と納得する事もできよう。大事な事なので何度でも言うがラブコメでやってはいけない事は主人公を「スポーツ万能」「イケメン」「喧嘩っ早い」「平気で女と話す」等にする事であって、「魔法を使える」はやってはいけないわけではない(だだ誰だ「30歳で童貞だから魔法使い」などと言う奴は。俺は32歳素人童貞だ)。
 また本作の場合副ヒロインである妹の存在がいい味を出していて、正ヒロイン(弟子)も副ヒロイン(妹)も主人公(=読者)を尊敬してやまないが、正ヒロインと副ヒロインでは主人公に対する尊敬度合いが違い正ヒロインは主人公(=読者)を尊敬しながらもパートナーの座を狙っているのであり(「あの人が握っているのは私の心」「いつでも抱きついて来て下さい」「心の底から愛し愛されたいです」)、副ヒロイン妹は「肉親としての情愛」と「父母と死別したった一人の肉親である兄」という事実によって兄(=主人公=読者)を唯一の拠り所としているのである。この2つの視線を常に浴びる事によって主人公(=読者)の存在感は非常に高くなり読者は優越感を感じつつ両ヒロインを守ってあげたくなる余裕すら意識する事ができよう。もちろんそんな主人公には一方で庶民性も強調され、二転三転(人間をやめた)した後は人並みの性欲にも振り回される事になるのだから、かなり重層的なラブコメの構造となっている。これで「魔界の力を束ねて太古の魔術を復活」云々の、大上段でありながらあまり迫力のないシリアス展開がなければもう少し作品世界に入り込む事ができたように思うが、結果的にはこれぐらいの順位がちょうどいいだろう。
 
第11位:恋愛しませんか?/タチバナロク[角川書店:角川コミックス・エース]
 基本と原則を忘れてはならない。昔も今も我が日本ラブコメ大賞において問われているのは「希望・救い・癒し」なのであって、辛く苦しく悲しい日々を送っている我々はラブコメによって明日への活力を見出すのである。だからただ「モテない男に女が群がってくる」だけの作品など論外で、市井の凡人、それも下層階級に近い我々のような人間に「美人で可愛くて巨乳な女が寄ってくる」構図を持ち込む事がラブコメには必要とされているのであり、そのため主人公はリア充であってはならない。主人公は虐げられる側の人間でなければならず、もちろん「虐げられる」が指すものは時代によって変わってくるが、現代社会では「リア充ではない、そして虐げられている男」となるとみすぼらしいオタクの出番となる。
 というわけで本作だが、俺が主張したいのは「これのどこがラブコメなのだ」という事であって、それ以外は完璧なのにそのせいで完璧ではなくなっている(ちょっとわかりにくいかな)。何が言いたいかというと主人公はかつてリア充だった(「オタクになる前の中学の時なんか女子に密かにモテた」「告白もそれなりにされてた」)のであり、そのような主人公を無理やり「オタク」にして出発している事が本作の最大の失敗であろう。いくらオタクが世間一般に深く浸透しているからと言って「リア充」色を入れるとチグハグになる事など自明であり、「オタク」はリア充ではないのである。リアルが充実していない、恵まれた学生生活を送っていない、みすぼらしい、つまらない、情けない男が「オタク」なのであり、そのような男(=主人公=読者)が突如として女を手に入れる事ができる(リア充でない人間がリア充を超える)のがラブコメの本質である。そこを意識していないから「いつかはお前にとって頼れる先輩になりたいと思っている」などというふざけた言葉を発する事になり、更に支離滅裂な事にレズまで出てくるのである。レズとは「女しか興味がない」→「主人公(=読者)は眼中にない、無視する」という生き物なのでありラブコメを破壊する悪魔であり、絶対に登場させてはならないのだ。「現実の女が二次元の女達に敵うわけないだろう」とオタクの覚悟を描くのであればオタクを描き切ってもらいたい。そうであれば間違いなく3位以内には入っていただろう。
 しかしながらそこさえ目をつぶれば後は流れに任せて楽しいラブコメの世界が待っている。主人公(=読者)は「浮気者」と言われ「先輩(=主人公)は渡さない」と言われ「先輩(=主人公)と一緒ならどこでもいいです」と言われ、酔っ払って絡まれ、ビキニの女達と遊ぶ事ができるのであり、リア充を超えた豪華絢爛な青春を送るのであった。だからこそ最初のボタンの掛け違いが惜しい、実に惜しい。
 
第10位:BOOTSの山田さん/山下てつお講談社:マガジンZKC]
BOOTSの山田さん (マガジンZKC)

BOOTSの山田さん (マガジンZKC)

 またしてもヒーロー論になるが、ヒーローとは一種のエリートであり特権である。そして特権階級は必ず腐敗する。弱い者を守ろうと強い力を身につけた、或いはそのような力を授かった者は弱い者の味方のごとく近づいて実際に弱い者を助けるが、その微笑みの裏には「こいつらは俺が守れなければ死んでしまうのだ」という優越感を抱え、やがて庶民にとっては雲の上の存在となり、ラブコメの主人公たり得ない。もちろんそれを非難したいわけではない。神ならぬ身である以上邪な感情は必ず発現するのであり、力のない弱い者にしてみれば守ってくれさえすればそれでいいのである。ただそのようなヒーローならばラブコメにはならないというだけの話である。
 しかしヒーローが本当の「弱い者」から派生し、ヒーローとなった後も「弱い者」的立ち位置を堅持するのであればそれは我々と同じ視点を持つ者、つまり主人公=読者となりラブコメとなり、「自分でもヒーローになれるのでは」という淡い期待と救いを得る事ができよう。本作はその点まさに打ってつけで、42歳無職日雇いというどん底の男が完全なる偶然によって生まれ変わり(「ヤクルトと下痢止めで生まれ代わる体質」)、「頭のおかしい露出狂の女」(パー子ちゃん)によって瞬く間にヒーローとして活躍し、主人公はいつの間にか周囲にあれよあれよと担ぎ出されてヒーロー機関に属するのであった。ラブコメの主人公は「平凡・地味・普通」であるから間違っても自分からヒーローに志願する事はないが(志願するようなご立派な主人公ならそもそもラブコメにならないが)、本作の主人公は42年も生きておいて「(せっかく生まれ変わったんだし)一発当てて何かすげえ事ができるかもしれない」からヒーローになんかなるか、もっとすげえことをするぞと拒否するという少々甘い人間でもあるから、親近感を生む事にもなろう。
 ヒーローだからと言って誰もが純粋な子供達のお手本にならなければならないわけではない。我々は虚栄心や生活のために仕方なく働き、時にはボランティアや社会貢献に嫌々ながらも従事しなければならないのであり、それでもそれらをやめないのは守るべきもの、本作で言えば家族を養うためにそれらと向き合っていかなければならないからであり、それを紆余曲折の後に主人公も気付いたのである。その姿、「守るべきもの」に立ち向かっていこうとする時、人は誰でもヒーローになれるのであり、それを表現できるのは「平凡・地味・普通」且つ「デブ・貧乏・どん底」な男でも主人公となれるラブコメでこそ可能なのである。ラブコメとは希望の物語なのだ。
 
第9位:うぶうぶふうふ/かがみふみを双葉社:High Action Comics]
 毎年のように言っているが繰り返させて頂くとラブコメは普通「夫婦になる」までを描いて、それで終わりとなる。「地味で平凡で冴えない男」を我が物にしようと複数のヒロイン達が争うところがラブコメの最大の魅力なのであり、そのうちの誰か一人が主人公のハートを射止めて夫婦となってしまえば(一夫多妻という考えもあるが、ここでは省略)終了となる。しかし夫婦という形態は社会的に認められているゆえに何をやってもいい(どれだけ変態的な、けだもののような、キチガイな性生活を持っても文句は言えない)という安心感と強さがあり、しかも二次元のセオリーによって妻は美人でスタイル抜群、それでいて「妻=生涯、夫だけに尽くし夫だけを愛さなければならない」なのであり常に夫(平凡・地味・冴えない)を求めるのであり、それによって妻が夫に依存している事を夫(=主人公=読者)は認識し、優位に立てるどころか支配の感覚すら味わうことができるのであるから、その優越感と征服感は独身の並みではない(一夫多妻という考えもあるが、ここでは省略)。
 とは言えいくら「優越と征服」と連呼したところでそこは程度問題で、夫婦は性交渉のパートナーであると同時に社会的な要請(子供の養育、親の介護、親戚付き合い、お墓の維持、等)に応えなければならない2人なのだからいつまでも性交渉に没頭しているわけにはいかない。とは言え生々しい話(子育ての試行錯誤、双方の親との付き合い方、等)ばかりされても困るのであり、ある程度のリアリティは確保した上でラブコメとしての文法を活用する事が夫婦ものラブコメの腕の見せ所であり魅力となろう。本作では子育てに奔走する夫婦が幼くかわいい自分達の子供に幸せと癒しを感じながらも一方で「昔みたいになかよくしたい」と感じ情熱的な恋人時代の感覚を取り戻そう(「昔はごはんの最中でもちゅうしてたりしてたなあ」「映画そっちのけでちゅっちゅしてたりしたよね」)と奔走するのであり、その甘ったるさを夫(=主人公=読者)も妻(=ヒロイン)も十分認識しつつ相手を欲する事をやめられない(「手をつなぐとこから始めてみたりしてます」「主人公のおちんちん見たくなっちゃたの」)姿を描く事で照れや冷やかしなど入り込む隙間のない二人だけの世界を構築する事に成功しているのであった。そして夫(=主人公=読者)と妻(=ヒロイン)は「子育て」と「夫婦且つ恋人同士」の両立を果たすのであり、粗っぽさのないふわりと包み込むような線画が更に2人を引き立て、読者は存分に癒されるのである。刺激的ではないラブコメも実にいいものだ。
    
第8位:年ノ差20/40/板場広志竹書房:BAMBOO COMICS COLORFUL SELECT]
 またしても夫婦ものだがこちらは夫婦であっても「性交渉のパートナー」的側面が強調されている。何せ竹書房レーベル(エロ漫画と実質変わらない非エロ漫画)の作品であるから主人公とヒロインは夫婦という保証された社会性(変態的、けだもの、キチガイであっても誰からも咎められない)を活用して毎回毎回ヤるのであり、更に言えば20代前半の妻に性交渉をせがまれる夫は「40…超えたぐらいです」歳なのであり、そのようなカップリング自体も大変魅力的だが(俺も32歳だからね、10〜20代より40代の方が感情移入しやすいんよ)、世間体を気にして社内に夫婦である事を公言できない主人公とそれに不満を持つ妻という構図もまたよろしい。
 一見すると妻(アイドル女子社員)が主導権を握っている(「いつになったら皆に話してくれるのよ」「こうなったら既成事実を作るしかないなって」)構図に見えるが、それは「夫(=主人公=読者)が結婚した事を社内に公表したがらない」事に端を発するのであり、原因とその解決策は全て夫(40歳+α)が握っている事になり、言わば夫(=主人公=読者)こそが妻を振り回している、が本作の構図なのである。それは男(=夫=主人公=読者)が女(=妻=ヒロイン)の上に立たなければならないというラブコメの根本的な構造を守っており、そのようにして夫(=主人公=読者)は妻を困らせながらも毎回毎回妻を抱けるのだから、これほど優越な立場はない。またエロ漫画で熟年の技を持つ作者が描くスレンダー且つ巨乳なヒロインは「40歳+αな主人公がこんなに上等な女を妻とする事ができ、毎回毎回性交渉をねだられるのか」と興奮を抑えられず支配の感覚も満たされよう。1巻完結の中で夫(=主人公=読者)とヒロインのなれそめ、小さなトラブルとその解決後の性交渉、別離の危機とその克服がうまくまとめられており、このような作品こそ何年も何十年も大事に保管すべきものであろう。国会図書館にちゃんと納本されていればいいが(ないなら俺が寄贈するか)。
 しかし着エロというのはいいような悪いような…実に複雑なものですな(何を言っとるんだ)。
 
第7位:しっとりレディと甘い蜜/東タイラ竹書房:BAMBOO COMICS COLORFUL SELECT]
 タイトルは意味不明だが気にすることはない。所詮は竹書房レーベル(エロ漫画と実質変わらない非エロ漫画)であり、中身がしっかりしたラブコメであればよく、本作の中身はしっかりしている。昨年度も述べたように(2014年4位「駅から始まる恋の物語」)作者は「見知らぬ男女(或いは単なる同僚、同級生、知り合い)がふとしたきっかけで恋人関係に発展」の見せ方が非常にうまく、特にまだ恋人関係ではない男女がとりあえず会話をしなければならなくなった時の気まずさを描きつつもヒロイン側がその気まずさを突破しようとする描写は抜群で、話を早く進めるためにヒロイン側が積極的になるのはよくある事だが、その積極さを「(このヒロインは)男なら誰でもいい」というような淫乱さではなくあくまで地味で平凡で冴えない主人公(=読者)を欲しているからこその積極さとして描き、ではなぜ主人公を欲したかと言えば「ヒロインが主人公を好きだから」であり、ではなぜ主人公を好きになったのかと考える間もなくヒロインは主人公に積極的に話しかけ、身体を寄せ、その身体を惜しげもなく開き、めでたく恋人同士となるのであり、恋人同士となった後であればそのような瑣末な事を考えるのは野暮になるように見せるところまで提供してくれているのであった。
 何せ日常会話からしてヒロイン(美人で性格良くてスタイル抜群)が主人公に多大な好意を持っている事は明らかで、「身体冷えてきそう、雨が上がるまでくっついていよっか」「何よう、私じゃ不満なの?」「主人公さんは優しくて素敵な人ですよ、女性にもちゃんとモテてるんです、ちゃんと私にモテてます」「主人公さんの初めての相手を他の誰かに取られるかと思ったら…」等の驚きのセリフが飛び出すが、そのような都合の良いセリフと展開を描く事の迷いや照れが微塵もないおかげで読者側も迷いや照れもなく読む事ができるのであり、それによって「自分にもこんな出会いがあるかもしれない」という錯覚を迷いや照れもなく感じる事ができよう。
 更に特徴的なのは主人公(=読者)側がほとんど何もせずただ流されるままに美人でかわいいヒロインを手に入れ、それによって主人公はヒロインの繰り出す流れに乗って積極的に出ても(性交渉時に積極的に出ても)違和感がないという事で、ヒロイン側が積極的に出ながらも一番おいしいところは主人公が握る事こそラブコメの要諦である。またそれらのテンポのよさ、非性交渉シーンでの生活感も自然で、作者はいよいよ円熟味が出て来て職人の域に達しつつあるようだ。今後とも大いに期待したい。
 
第6位:許嫁協定/フクダーダ角川書店:角川コミックス・エース]
 大事な事なので何度でも繰り返すがラブコメにおいて主導権は主人公(=読者)が握らなければならない。話を展開させるのは主人公以外でもいいが、その話の中心に主人公がいなければならない。もし主導権を女(=ヒロイン)側が握っていたとすればその時点で主人公は取るに足らない存在となり、主人公が取るに足らないという事はその主人公に感情移入している読者まで取るに足らない存在になるという事で、90年代はそのようなラブコメばかりだった。いやそんなものを「ラブコメ」と呼ぶ事自体が許されないが、そんな暗黒の90年代は遠い昔であり2015年現在にそんなラブコメはもう存在しない(あっても無視する、無視すればそれはないと同じである)。ただし厄介な事に2015年現在には「肉食系」というものが存在するのであり、これが要注意である。「肉食系ヒロイン」が物語を引っかき回すのはいいが、主導権すら肉食女側が握るのであればそれは90年代暗黒ラブコメと変わらない。
 では本作はどうかというともちろんここに載せている以上そんなにひどいものではなかったが、1巻だけ読むとあやうくそうなりかけるところだった。ヒロイン達が主人公の「お嫁さん候補」として乗り込み、主人公を我が物にしようと攻勢をかける(出会って即接吻、同じアパートに引っ越し、朝の挨拶でパンツを見せる)のはいいが、その場合の主人公の戸惑いを表現するために主人公が動かない(「戸惑う」どころではなく、「フリーズ状態」)ので最初はただ「迷惑な女がやって来た」という印象しか残らなかった。しかし1巻後半へと進むに従ってヒロインが本当に主人公を想っている事が描写され(「私は主人公君を想い続けてきた十年で挑みます」)、ヒロイン4人が恥も外聞もなく主人公の誘惑合戦を繰り広げ(「見せびらかす気だ」「エプロンの下は何も着けていない」「赤ちゃんは私と作ればいいと思うの」)、本性を出して争い(「今ここで潰す!女として潰す!」)、迷走する(「主人公に嫌われたりしたらショックで寝込むわ」「羨まし死にしそう」)に従ってヒロインの中心に主人公(=読者)がいる事が確信できるので後は流れに乗る事ができよう。とは言え依然としてヒロイン達の行動原理には「主人公のお嫁さんになる」と同時に「他ヒロインに勝つ」事が残っているのでその分主人公の存在が薄くなってしまっている。「主人公のお嫁さんになる」事を原則として、その補足で「主人公争奪戦」設定を使うのなら問題はないが、本作では主人公が物語の中心にいるのかどうか時々わからなくなるのであった。
 しかしまあ、本作が優れたラブコメである事は間違いない。上記の懸念をうまく調整すれば1位になれたであろうが、やれやれうまくいきませんなあ。
  
第5位:恋愛の神様/鈴木マサカズ日本文芸社:NICHIBUN COMICS]
恋愛の神様

恋愛の神様

 2015年現在では「地味・平凡・普通・冴えない・目立たない」という、世に多く存在する男性は容易に結婚できない世の中になってしまった。理由は「女はもはや総合職として男のライバルとなってしまった」「見目麗しい二次元女性の方がいい」「仕事が忙し過ぎてそんな余裕がない」「合コンなんて恥ずかしくて行けない」等、いくらでも列挙できるが、できれば幸せな結婚をしたいというのが本音ではなかろうか。しかし昔は職場の先輩同僚や親戚や御近所さんが結婚や出産を支援してくれたが2015年現在にそんなものはないのであり、恋愛経験のない人間は戸惑い立ちすくみ何もできず高齢となり最後は無縁死するのである。夢も希望もない世の中になってしまった。
 だからせめてフィクションの世界では救ってもらおうという事で恋愛の神様に出てきてもらって主人公はヒロインとゴールインするのが本作である。なぜ恋愛の神様が出てきたのかはわからないしこのヒロインがラブコメの定説・2次元のセオリー通り「美人で可愛くてスタイル抜群」かどうかもわからないが(しかも29歳)、対する主人公も31歳で童貞であり(「童貞は童貞でもやろうと思えばやれない事もなくなかった、ちょっと意外でかわいらしい童貞だ」「…という言い訳をして31年か」)、そんな主人公に春が訪れる事はまずないが、フィクションの世界であれば恋愛の神様によって救われる事もありえるのである。言わば現代の希望と救済、そして夢物語が本作である。繰り返すが、31歳の童貞(ちなみに俺は素人童貞だ。文句あるか)に近寄ってくる女など現実にはいない、しかしフィクションならあり得るのだしそのフィクションの世界、夢物語の世界を堪能できれば(「俺がおじさんになっても、太ってハゲてリストラされても頑張るので優しくしてくだちゃい」「私の方こそおばさんになってもよろしくね」)我々はまた現実の厳しい戦場へと戻って戦う事ができるのである。或いはいつか自分にも恋愛の神様が見えるようになるのではと淡い希望を持つ事もできよう。ラブコメとは戦う男達の休息なのであり、世の中の「オシャレな店、オシャレな人々、オシャレな音楽、オシャレな連中、オシャレなセックス」に負け続ける人々の希望の物語なのである。
 しかし「セックスを体験した男が見る世界」というのは少し見たい気もするな。というか「女と付き合えば夜寝る前の歯磨きみたいに毎回普通にやれるもん」ではないのかね。だったら付き合うメリットって何なのだろうか(恋愛の神様「そんな事を言っとるから彼女ができないんだ」俺「何をこの」)。
  
第4位:まあ失礼ね/赤松光夫[秋元書房:秋元文庫

 さて日本ラブコメ大賞恒例の「『古き良き時代』のラブコメ」シリーズ(2010年4位「あした天気になアれ」、2011年6位「いらっしゃい青春」、20122013年12位「劣等生クラブ」、2014年3位「追伸 二人の手紙物語」)は今年も健在であります。毎年見つけるのに大変苦労するがそれでもやめないのはラブコメとは「女から相手にされないみすぼらしいオタクが、せめて二次元の中だけは相手にされたいという現実逃避」のためのものではない事を証明したいからで、ラブコメとは名もない庶民でも主人公となる事ができ、周りが必ず振り返るような美人のヒロインとロマンスを繰り広げる事もできる、或いは美人なヒロインではないがそれなりにいいヒロイン(情が深い、献身的に尽くす、等)を得てそれなりに幸せになれる…という事を読者に提示する物語なのであり、そのような物語は昔から現存して当時の名もなき庶民達を鼓舞してきた事を証明するために今年も孤軍奮闘したのであるが、それはともかく携帯電話やインターネットの時代にどっぷり浸かってしまった我々は昔には戻れない。とは言え強制的に戻ったら戻ったで別に構わないような気もする。電話はあるしTVもあるし新聞もあるし本屋もあるのだから、昭和48年にタイムスリップしたっていいではないか。ラブコメだってあるのだ。当時「ラブコメ」という名前がなかっただけで、普通で平凡な男が美人な女と出会い貴重な青春を送る事はありえたのだ。イケメンでスポーツ万能で喧嘩っ早くて明るくて金持ちな男だけに主人公の資格があるという風潮が当たり前になったバブル期(80年代後半〜90年前半)の前、四国の山奥から大志を抱いて(東大に入るか、広大な屋敷を建ててそこの主になるか)上京してきた主人公は「可憐で神秘的なモナリザのような女」と「情熱的で魅惑的なカルメンのような女」の間で戸惑い恥じらい走り回るのであり、何せ山奥から出てきた田舎者であるからスマートに事を運ぶ事などできず七転八倒となるがそこは昭和でありそんな若者を冷笑もせず嘲笑もせず周囲は温かく見守るのであり、まさに昭和、まだ人情が特別な意味を持つでもなく人々の間に自然に残っていた頃の物語がここにあり、ラブコメは昔も今も「みすぼらしい、学歴も家柄も平凡以下、あるのは可能性だけ」な我々を励ましてくれるのである。だから明日も生きていこうではないか。
 
「それじゃちょうどよかったわ。この間のハンカチ、洗ってあるの。ねえ、ちょっと寄っていらっしゃらない」
 小首をかしげ、ヒロインは主人公の顔を見上げニッコリした。
「でも…」
「あら、遠慮しなくていいのよ。家はすぐそこだから…」
 ヒロインの声は鈴のように美しい。
「あの、そ、それじゃ、お言葉に甘えまして…」
「あら、嬉しいわ。私、一度、主人公君とゆっくり話がしたかったの」
 ヒロインは小さな唇をすぼめた。口元にかわいいエクボができる。
「あの、しかし、僕の名前をどうして…」
 初めて主人公は不思議に思った。
「フフ、さあ、どうしてかしら」
 
第3位:Spotted Flower/木尾士目白泉社
 ラブコメの絶対条件は主人公が「地味で平凡で冴えない青年」である事だから、主人公を「オタク」にするのが手っ取り早い。そしてオタクであるため恋愛どころか世間一般に対して消極的な主人公に恋愛及び世間一般に積極的なヒロインをぶつけ、しかし主人公は「オタク」なのであり、周囲から羨望の的として見られるほどの美人ヒロインがなぜかオタクな主人公に積極的に言い寄る事でオタク主人公の存在感は飛躍的にアップする。最近はこのようなアウトラインを用いた作品が増えていい世の中というか住みやすい世の中になったが、「オタクな夫と非オタクな嫁」ものとなるとまだまだ数は少ない。9位で述べたように夫婦になってしまうと住宅ローンがどうの両親の介護がどうの避妊もしくは子作りがどうのといった生活感が出てしまう上に実際に子供が生まれたりするともはやオタクだ非オタクだのどうでもよくなるからである。だから夫婦ラブコメの頂点である「ふたりエッチ」の主人公はオタクではない。
 そこで本作であるが、妊娠してお腹が大きくなってすっかり怖気づいた(セックスする気がなくなった)オタク夫に非オタク妻がせまる(「この子には何もわからないよ、たとえ中で出したって」「妊娠発覚してから、あの野郎指一本触れてきやしねえ」)という贅沢極まりないものである。そもそもオタク男が非オタク女と「結婚してセックスして孕ませている」事自体が宝くじ当選に匹敵する人生大逆転であるのに、その妻は「同人誌もエロゲーも黙認」「先に寝て一人の時間を作ってあげる」「(クリスマスプレゼントは)あんたがハマっているアニメの18禁同人誌セット」とオタクに理解がある上に、「ネコミミだろうがメイドだろうが裸エプロンだろうが、何でもやってやろうじゃない」「ちょっとエロゲーやってみせてよ」という、事と次第によっては女神のような素晴らしい奥様なのであった。夫(=読者)は女神のごとき妻を手に入れ、その妻はあの手この手でヘタレ夫とヤろうとするのであるが(「本当の目的はラブホ入る事なんだけどね」「鰻で絶倫大作戦」)ことごとく迷走し失敗するのであり、その迷走・失敗の過程を見る事によって読者はいかに妻が夫(=読者)にぞっこんであるかを都度認識する事ができ、深い満足を覚えるのである。女尊男脾や「女はドSでなければならない、男はドMでなければならない」という風潮が闊歩する昨今においてここまでヒロイン側をピエロ役にさせる作品はレア中のレアものであり、痛快無比でもある。このような作品を読んだ時が「生きていて良かった、ラブコメを求め続けて良かった」と思える瞬間である。
 しかしエロゲーで孕ませシーンは必須であり、孕ませたヒロイン数人とのハーレムエンドもまた必須である(だから何だ)。
 
第2位:恋は雨上がりのように眉月じゅん小学館ビッグコミックス  本作を1位にするべきか否か、相当悩んだ。15年の歴史を持つこの日本ラブコメ大賞においてこれほど悩んだのは初めてというくらい悩んだが、結局2位とした決め手は作者が女性だからであった。もちろん作者が女性だろうが両性具有だろうが優れたラブコメならどんどん引き上げていくというのが日本ラブコメ大賞の大原則であるが、ではラブコメの大原則である「地味で平凡で冴えない男」を女が描き切れるかというと難しい。「地味で平凡で冴えない男」を描くという前提に立ったとしても女が描く男(主人公)はどうしても「女の理想」が入ってしまい「地味で平凡で冴えない男」に徹する事ができないのであって、たとえ編集が指導・チェックしてもいつの間にか女による「女が考える男」の感覚はストーリーや台詞やストーリー全体の雰囲気等に忍び寄りラブコメを破壊させるのである。これはどうしようもない。女は男ではないからだ(当たり前だが)。
 だがそのような致命的な欠点(後に言及する)があっても2位となったのだから本作は非常に優れたラブコメである。「年の割に冷めてて、基本、無表情」なスレンダーな女子高生17歳ヒロインは「45歳、万年(ファミレスの)店長、おまけにバツイチ」「ちょっと寝癖がついたり、たまにズボンのチャックが開いていたり、ストレスで頭に10円ハゲができていたり」「いつもペコペコ頭を下げている」な主人公を好きになり告白するのであり、対する45歳主人公にしてみれば女子高生17歳など別の世界の人間同然であるから熱い眼差しを注がれても「ゴミでも見るような目で俺を見ているな、まあ彼女からしたら俺なんかゴミ同然か、ははは」と意に介さず、告白されても「ドッキリか、最近の子は機械に強いから隠れて動画でも撮ってやがるんだろう」と否定し、いや本当にこの女子高生17歳は俺の事が好きらしいとわかるや「同年代の子を好きなら理由はいらないけど、俺とヒロインさんだと理由はいると思うよ」とあくまで「自分は45歳のどうしようもない中年男である」という考えを維持するところがまさしく「地味で平凡で冴えない中年男」であり読者は好感と親近感を持って主人公と一体となる事ができ、「女子高生17歳に告白された」事の戸惑い、驚き、そしてほんの少しの夢と希望を感じる事ができるのである。
 また「17歳ヒロインが45歳主人公に告白」という構図と並行して描かれる両者の心理がいい味を出していて、ヒロインが主人公への秘かな想いを楽しみ(「ライバルもいない」「あなたの魅力は、私だけのもの」)、また一人でいる時も主人公との出来事を回想する事でヒロインにとって主人公がいかに大きな存在かが読者にわかるが、一方の主人公は「(ヒロインの)若さと純粋さに胸がしめつけられる」「若くはない自分へのいたたまれなさ」「自分が傷つきたくない」として悩むのであり、読者は「こんなにウジウジと悩む中年男でもヒロインは夢中なのだ」となって夢と希望、救いと癒しを感じる事ができよう。大変素晴らしいが、だからこそヒロインが主人公を好きになる(もしくは主人公を意識するきっかけとなる)「あたし、コレ頼んでませんけど」「サービスです。ただ雨をやむのを待っているだけじゃつまらないでしょう」の浅墓な描写が惜しい。生活と人生に疲れた45歳中年男が女子高生17歳にサービスするには理由(下心)が必要である。理由もなしにそんな事をした途端読者は主人公から離れてしまうが、そこに気付かないのが女性作者の限界であろう。作中でヒロインが美人かどうかの言及がないのもいかにも女性作者で、美人でない女子高生に告白されても45歳中年男にとっては迷惑なだけであるが、そうは言っても2位なのであるから本作が優れたラブコメである事は俺が保証しよう。
 
第1位:お前ら全員めんどくさい!/TOBI[フレックスコミックス:METEOR COMICS]
お前ら全員めんどくさい! (1) (メテオCOMICS)

お前ら全員めんどくさい! (1) (メテオCOMICS)

 ラブコメの主人公は被害者的立場に置かれる。なぜならある日突然思いもかけぬ好意に遭遇し、その好意を押し売り的に押し付けられるからである。しかしその思いもかけぬ好意を発するのは「美人でかわいくてスタイル抜群、誰もが羨むような女性」であるから、被害者は被害者として満足する。もちろん「被害者」とは言えそれは表面的な被害者にとどめなければならない。それをわかっていなかった90年代暗黒時代のラブコメはヒロインから殴る蹴るの暴行を加えられても「トホホ…」ですましてしまったのであり、そのようなものは断じてラブコメではない。マゾの性的快楽のための特殊な物語である。殴る蹴るの暴行を加えられてなぜ「男(=主人公)が女(=ヒロイン)の上に立つ思想」となりえようか。
 翻って本作だが、まず主人公は真面目な(オシャレに興味がない)高校の教師であり当然女生徒に手を出すことなど考えていない。しかし女生徒は寄ってくるのであるが、それに対して毅然と跳ね返す事もなければウハウハのハーレムを築くわけでもなく現状維持のままやり過ごすものだから女生徒(ヒロイン)達の思いは膨れ上がり実力行使に至り(手をつなぐ・頬にキス・プールに誘う・寝込みを襲う・ラブレターを渡す・耳たぶを噛む、等)、そのような事を生徒にされて世間その他に知られては自分の地位が危うくなるので「めんどくさい」事この上ないが、しかし一切の接触を遮断するような事を言うのも「めんどくさい」、女にモテるというのはこんなに「めんどくさい」事なのか、と読者は主人公と一緒になってその「めんどくさい」を体験しながらも主人公の「めんどくさい」立場を楽しむ事ができよう。これこそ2次元の勝利であって、3次元ならば絶対にありえない状況を提示して読者を楽しませるのが全ての2次元カルチャーの基本である。またそのような「めんどくさい」立場を強調するために社会人・職業人としての教師の生活は極力描写されず(職員室も出てこなければ昨今の教育問題的な話題は一切出てこない)、主人公とヒロイン達のやり取りをメインにする事で話の展開がスムーズ且つスタイリッシュに仕上がり(コマ割を大きくして空間に余裕を持たせているのもスタイリッシュである)、読者は「女生徒に囲まれた教師」というおいしい部分だけを新鮮に食べる事ができ、更にそのように女生徒に囲まれる事は「めんどくさい」、つまり俺はめんどくさく感じているのであって決して鼻の下を伸ばしているわけではないという言い訳まで用意されているので読者は罪悪感を感じる事なくこのラブコメ世界に没頭する事ができるのであり、読者に癒しと救いを与えている。素晴らしい。手放しで称賛しよう。