僕と妻の1778話/眉村卓[集英社:集英社文庫]

僕と妻の1778話 (集英社文庫)

僕と妻の1778話 (集英社文庫)

 作家が、余命幾許もない妻のために毎日短い話を書いて読ませ、感想を求めることにした。妻に精神的・身体的苦労をさせないためにはそれぐらいしか方法がないし、もともと作家はその長い作家生活において原稿を書き上げるとまずは妻に読んでもらっていたのだから、作家が書いてそれを妻が読むというのはごく普通のことで、それを今度は作家が妻のために書いて妻に読んでもらうことにしたのだ。しかし作品のレベルを落としたり、夫婦だけにしかわからないようなことを書くことはせず、その作品は「外部に発表しても評価され得るレベル」にすることで夫婦は合意した。そうすればこれは夫の仕事になるし、妻にとっては、自分の存在が夫の仕事の邪魔になるとも思わない。
 この作家とは眉村卓であり、眉村卓筒井康隆と同じくSF第一世代の人間で、筒井ファンである俺にとって眉村卓は親しみやすい存在でその小説もかなり読んでいるが、このようなショート・ショートを読むのは初めてであった。そしてその内容はと言えば「アハハとかニヤニヤとかの笑いを心がけ、どんなに荒唐無稽でも、どこかできっと日常とつながっている」作品ばかりであり、また病人を刺激しないためだろうがフワフワと軽いのにやたらと彩りがあり、小さい子供を喜ばせるために風船を膨らませて空に放った時のような優しさと楽しさが醸し出されていた。死に挑戦するとか死を乗り越えようといった大それたことはできないが、死に対して平凡な一夫婦がどこまでできるか、それも自分たちらしくするにはどうすればいいか、また死を前にして夫婦はどう向き合えばいいかという試行錯誤の結果が本書であり、当然我々読者は全1778話から選ばれたこの52話が死んでいく者のために書かれた作品であるということを知った上で読むわけだが、それでも優しく楽しい気持ちに浸れたのだから夫婦の試みは上々のうちに終わったということであろう。SFや奇妙な味から単なる楽屋オチ的な作品まで、全て「外部に発表しても評価され得るレベル」であり、お亡くなりになってこんなことを言うのは不謹慎だがめでたしめでたしではないか。
 なお、読んでいて楽しくなった俺は自前でショート・ショートを作ってみました。A4のWORD版で3枚。
   
「人混みを避けて」
 地方の田舎で育った私のような人間にとっては、ここ東京の人混みはいつまで経っても慣れないものだ。
 しかも年々その「人混み具合」はひどくなる一方で、少子高齢化グローバル化の影響で地方が不景気になって住みづらくなって人が大勢いる東京や東京近郊に我も我もと移動している…と新聞に書いていたが、とにかくこう人が多いと不快なことが多い。数年前までは通勤途中の電車に乗っている人の数もそれほど多くはなかったから本を読むことができたが、最近はいつもギュウギュウ詰めで、本を開いて読むスペースも確保できない。
 また私は仕事の関係で新宿や渋谷や銀座といった人通りの多いところへよく行くが、ここでの人の多さは常軌を逸していると言っていい。たとえ平日であってもまだ朝の早い時間帯であっても老若男女が溢れていて、外国人の数も多く見かける。テロやグローバル化の影響で各国の治安が不安定になって住みづらくなって、治安が安定している東京や東京近郊に我も我もと移動している…と週刊誌に書いていたが、とにかくこう人が多いと不快なことが多い。私が贔屓にしていた喫茶店は数年前まではいつでも席が空いていて、コーヒー1杯で1時間や2時間はゆっくり本が読めたものだが、最近はいつも席が埋まっていて、しばらく待ってやっと座れてコーヒーを飲み終えて本を読んでいるとウェイトレスから「他にお待ちのお客様がおりますので」、さっさと出て行け、と言われる始末だ。
 そこで今度の夏季休暇は人混みを避けてゆっくりできるところへ旅行する計画を立てた。東北のA県に行くのである。とは言え新幹線では人が多いだろうし、車やバスで行っても渋滞に巻き込まれるだろうからフェリーで行くことにした。フェリーだと料金は高いし時間もかかるのでほとんどの人は使わないだろうから、人混みに悩まされることなくゆっくりとできるはずだ。
 そのフェリーへは電車でフェリーターミナル近くのB駅まで行って、そこからバスでフェリーターミナルへ行くのであるが、当日もその電車は多くの人が乗っていた。まあB駅に着くまでの辛抱だと思っていたが、電車がだんだんB駅へと近づいているはずなのに人は減らず、B駅に着くと電車に乗っていた人の大半が一斉に降りていった。呆気に取られた私は思わず降りそこねるところであったが急いで下車して、駅前のバス停へ向かうと長蛇の列であった。そうか、確かあのフェリーターミナルの近くには海岸広場があったな、皆あそこへ行くのだなと思ってギュウギュウ詰めのバスに乗ってフェリーターミナル前のバス停に降りたが、ほとんどの人はフェリーターミナルへ向かっていった。最も海岸広場に人はいないのかと言うとこちらも多くの人でにぎわっていた。
 かくして私は船の乗船手続きに2時間待たされ、船の中に入っても老若男女が溢れかえる中で翌日の昼まで過ごすことになった。もちろん私に経済的余裕などというものはないから寝るのは個室ではなく大部屋で、大勢の客に交じって雑魚寝するのであるが、私に用意されたスペースはきっちり畳1畳分であった。それにしても何でこんなに多いのだ、いつもこうなのかとフェリーの従業員に聞いてみると、不景気やレジャーの多様化の影響で海外旅行などに行きづらくなって、最近は陸から一時的に離れるフェリーを使った旅行に我も我もとやってくる、とどこかの偉い人が言っていましたと…とのことだった。
 翌日の昼過ぎにフェリーは目的のA県の港に着き、東京の満員電車から降りるのと変わらないぐらいの人の群れに交じって船を降りて、港のバス停からバスに乗って近くの駅まで行き、A県C市に向かうことにした。C市は県庁所在地ではあるが、A県自体が観光地としてそれほど有名なものではないので東京よりはずっと人が少ないはずである。もちろん観光地としての場所はいくつかあるが、私はC市にある本屋や古本屋を数軒回るだけでそのような場所に行くつもりはない。これでゆっくりと過ごすことができよう。
 ところが船からバスに乗っても、C市の駅へ向かう電車でも人の数は一向に減らず、電車に乗っていた人の大半がC市駅で降りて、駅の改札を出るとそこは新宿や渋谷や銀座のような人の数であった。どうしたことだ、ここは東北のA県ではないか、東京のど真ん中ではないのだぞと驚いて、駅員になぜこんなに人が多いのか聞いてみると、不景気やグローバル化の影響でここA県は人が少なくなる一方なので、県や市や企業が人を呼び込むために新幹線代や飛行機代を半額にして招待したり、A県だけで使える紙幣を発行してそれを安く売ったりした結果こうなった、と駅長が言っていました…とのことだった。
 私はもう帰ってしまおうかと思ったが、既にここまで来たのだし、今日泊まるために予約したホテルのキャンセル料を払うのも馬鹿馬鹿しいので予定通り本屋や古本屋を回ることにした。移動の電車や地下鉄やバスはどこもかしこも人が一杯で(さすがに本を読むスペースは確保できたが)東京から離れた感じがせず、また訪れた本屋や古本屋には普段こんなところに来ないような軽薄そうな若者や身なりを整えた中年婦人がたくさんいて、「A県限定の紙幣」とやらを使ってコミックや芸能人のベストセラー本などを買っているようだった。
 やがて夜になり、適当な居酒屋や立ち飲み屋を見つけて一杯飲みたいところであったが、どこもかしこも人が大勢いたのでさっさとビジネスホテルにチェックインして寝ることにした。暗闇の中で、何という休暇だ、人混みを避けるはずが人混みの渦中に入っていったではないか、私は馬鹿か、と考え始めるとなかなか眠れず、朝は早起きの私には珍しく8時前に起きた。このビジネスホテルでは6時半から8時半まで1階のレストランで朝食バイキングをやっているというので1階に下りて、どうせ昨日と同じく人が大勢溢れているのだろうがホテル代にこの朝食代も含まれているのだから食べないと損である。私に経済的余裕はないのだ。
 レストランには人が一人もいなかった。
 場所を間違えたのかなと思ったが、入口には「朝食用レストラン」「ご自由にお召し上がり下さい」と書かれた紙が貼ってあるし、何よりレストラン中央にはサラダや魚類や肉類が並べられ、奥に行くに従ってご飯や味噌汁、またデザート用のフルーツが並べられているのである。入口付近にあるトレイを取って、皿や箸を置いて、キャベツ、ホウレン草、切干大根を皿に入れ、別の皿にコロッケとハムを入れて、ケチャップをかける。客が座って食べるためのテーブルは中央を取り囲むように一人用、二人用、四人用が合わせて30席ほどあったが、誰もいなかった。従業員の姿もない。奥の方に天井からぶら下がる形でTVが置かれていて、そのTVから「今日のお天気は曇り、時々にわか雨が降るでしょう」と大音量で女性が話していたが、周りに人がいないため妙に虚しく響いていた。
 ご飯の上にハムをのせて口に入れながら、これはまたどういうことだろうと私は考えた。レストランの壁周りはガラスになっていて、そこから外を見ると通りにはまだ8時だというのに大勢の人が歩いているのである。ここだけ人がいないのはどう考えても異常ではないか。TVが「今日のラッキー星座は、さそり座のあなたです」と言うのがレストラン中に響き、私が食材に箸を伸ばして皿に触れた時のカチャカチャという音もレストラン中に響く。何とも居心地が悪く、箸も進まない。いつもならバイキングだと時間を惜しむように食べるのだが、音を立てればそれだけで悪いことをしたような気になるほどの静けさに包まれた感じだ。
 たまたま人がこの時間に限って来ていないというだけなのだろうか。それともこのホテルに泊まっている人はほとんどいないのだろうか。しかし朝食の時間は8時半までで、今は8時なのだ。一番ピークの時間だろう。それにこのホテルはサービスがよく料金は安いという全国的に有名なホテルチェーンで、外はあんなに多くの人が溢れているのだ。泊まっている人がほとんどいないというはずはないだろう。そうすると…私は何かとんでもないことに巻き込まれたのでは…と思っているとドヤドヤと10人くらいの中年男性たちがレストランに入ってきた。「おいしそうなのがたくさんあるよ」「お、牛乳、オレンジジュース、リンゴジュースがあるね」「ご飯は何杯食べてもいいんだろ、ハハハハ」と話し、いつの間にかホテルの制服を着た従業員の女性もいた。30席ほどあるテーブルはたちまちのうちに埋まってしまった。私はまた、何という休暇だ、人混みを避けるはずが人混みの渦中に入ってしまったではないか、と思った。