世界の歴史23 第二次世界大戦/上山春平・三宅正樹[河出書房新社:河出文庫]

世界の歴史〈23〉第二次世界大戦 (河出文庫)

世界の歴史〈23〉第二次世界大戦 (河出文庫)

 「第二次世界大戦はなぜ起きたのか」と問うと、「第一次世界大戦が起きたからだ」と答えるジョークを聞いたことがあるが、あながち間違いではない。第二次世界大戦の原因は一言で言ってしまえばヒトラー率いるドイツの領土拡大政策にあるが、なぜヒトラー・ドイツが領土を拡大せざるを得なかったかというと、第一次世界大戦で負け植民地や領土を没収され、巨額の賠償義務を負わされたからである。
 などと言うとかなり乱暴で短絡的に聞こえるが、あながち間違いとも思えない。本書はタイトルこそ「第二次世界大戦」となっているが、内容は第一次世界大戦から第二次世界大戦までの戦間期の国際政治史が主であり、ドイツそして日本がいかにして再び世界大戦に突き進まざるを得なかったかが書かれている。その中で象徴的な役割を果たすのが、第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加した近衛文麿が書いた論文「英米本位の平和主義を排す」であった。この論文には世界が依然として正義の裏にある力によって支配されていること、特に英米などの「持てる国」が今後も「持たざる国」の野心を許さずに「持てる国」の地位を維持する政策を続けることによって世界はまたしても戦場となるだろうという憂慮が静かな迫力をもって書かれ、後に近衛率いる日本が「持たざる国」の代表として戦争に突き進んだことを知っている我々としては何とも言えぬ戦慄に襲われよう。
 そもそもドイツは日本と同じく1870年前後に国家統一を果たしたのであり、ドイツが植民地獲得競争に乗り出した時、ほとんどの土地は英・米・仏・露によって征服されていたのである。当然その「持てる国」から「持たざる国」への再分配などというものはなく、やがて勃発した第一次世界大戦で敗北を喫したドイツはウ゛ェルサイユ条約において「持てる国」英米仏から植民地どころか領土も締め上げられ、巨額の賠償金を課され、暴風雨のようにやってきた世界恐慌によって「持てる国」は植民地を自国の保護経済圏に組み込み、巨額の賠償金に苦しむドイツ国内には失業者が溢れ、ヒトラー率いるナチスの台頭を許してしまうのである。それらは「持てる国」が「持たざる国」であるドイツを徹底的に締め上げようとした(「レモンの種がなくなるまでしぼれ」)当然の帰結であり、近衛はそれを正確に予見していたのである。
 さてもう一つの「持たざる国」である日本はどうかと言えば、第一次世界大戦では戦勝国として山東半島のドイツ利権を継承したものの、それから数年後のワシントン会議では時の幣原国際協調外交の名の下にこれを中国に返還、更には日英同盟を廃棄して「太平洋に関する四カ国条約」「中国に関する九カ国条約」を締結、いつの間にか「持たざる国」に逆戻りしてしまうのである。まるでウ゛ェルサイユ条約のドイツのように、このワシントン会議で日本は干され、やがてこのワシントン体制に日本は満州事変をもって挑戦、米国務長官スチムソンはこれをワシントン体制への侵犯として「スチムソン・ドクトリン」を宣言、その後の日本と米国との戦いはご存知の通りである。こうして見るとなぜ日本がドイツと手を結ばざるを得なかったかがよくわかる。第一次世界大戦後の世界秩序は所詮「英米本位」なのであり、第一次世界大戦が終わった時から既にドイツ・日本はやがて英米と決定的な戦争に乗り出さざるを得なかったとも言えるのである。
 ただしここが国際政治の複雑なところであるが、ヒトラー自身は「我が闘争」にもあるように英米、特にイギリスとは当初戦う気は毛頭なかったようである。ヒトラーは「ヨーロッパを支配しようとする」フランスを叩き、「生活圏を確保するために」ロシアを開拓しなければならず、そのためにはイギリスそしてイタリアとの同盟を模索すべきだと説いていた。だがイギリスはなびかず、それどころかアメリカ・ソ連を引き込むことに成功するのである。このあたりも第二次世界大戦の原因を探る有力な手がかりとなろう。
 とまあ、ここまでの文章を読んでどうも本書の上っ面をなでただけのようで汗顔の至りだが、とにかく第二次世界大戦というのは各国の政治・経済・社会の利害が複雑に絡み合い、到底整理できるものではないことだけは確かであるから、今後も死ぬまで第二次世界大戦に関する本を読み漁り、順次感想を載せていくことにしよう。
 
 自分の留守中に、スタインハートの筋とはまったく別のところから、自分に相談もなしに日米交渉が開始されたことは、自負心と自尊心の強い松岡を激怒させた。
 松岡の感情をおしはかった近衛は、自分が松岡と二人だけで話をして、今回の日米交渉について松岡に理解してもらおうと考え、自ら、4月22日、松岡を出迎えに立川飛行場に赴いた。立川から東京までの自動車のなかで、じっくり松岡に話すというのが、近衛の目算であった。
 ところが、大連で右手を怪我したという松岡は、右手に大げさに包帯を巻き、これを首から吊っており、出迎えにきた近衛に、握手のために左手を差し出した。公爵近衛文麿には、これが無礼であると、カチンときた。ついで松岡は、自分はこれから宮城へ行き、二重橋を参拝すると言い出した。そういうわざとらしいジェスチャーが嫌いな近衛は、すっかり感情を害し、外務次官大橋忠一に、松岡と同車して日米交渉の件を松岡に話すようにと言い残して、一人で先に東京へ帰ってしまった。
 これ以後、近衛と松岡が、二人だけでじっくり話すという機会は、二度と訪れなかった。
 
 フランスの敗北は、イギリスと並んでフランスが世界の秩序の中心であり、最も重要な支柱であるという、戦間期に支配的であった幻想を吹き飛ばした。この幻想が消えた後に、アメリカとソ連超大国として歴史の表面に姿を現す。フランス陸軍がナチス・ドイツを屈服させていたならば、戦後世界の様相はかなり変わったものとなっていたであろう。第一次世界大戦後の世界についての設計図を作る上で中心的な役割を果たしたのは、クレマンソーに代表されるフランスであった。第二次世界大戦後の世界についての設計図を作ったヤルタ・ポツダム両会談に、フランス代表の姿は見られない。代わりにスターリンが登場した。クレマンソーは、敗れたドイツからアルザス・ロレーンや海外植民地を奪ったが、スターリン東ドイツと東欧諸国をソ連の勢力圏に組み入れた。
 
 1942年春、日本軍が大英帝国の東洋における牙城シンガポールを陥落させたというニュースを聞いたヒトラーは、同盟国日本が敵国イギリスを負かせた事自体は喜ぶべき事であるが、あの黄猿どもがアーリア人種たるイギリス人をシンガポールで屈服させた事を考えると、自分は、ドイツ軍をシンガポールへ派遣して、黄猿どもを叩きつけたい気持ちになると告白している。黄猿どもというのはもちろん日本軍将兵の事である。