群像 2010年5月号[講談社]

群像 2010年 05月号 [雑誌]

群像 2010年 05月号 [雑誌]

 俺とて10代の頃は多感だった。病気や経済的な事情に頭を抱え、周囲の同世代の人間達がゲームだの歌謡曲だの彼氏彼女だのと騒いでいるのを横目で見ながら文学青年を気取って由緒ある純文学雑誌「群像」を読んだりしたこともあった。その後「ラブコメ」云々の極私的な快楽に溺れ、日々刻々と行われる政治の権力闘争の魅力に囚われ、大学を卒業して東京に出てきて恐れ怯え慄きながら働き続けて気が付いたら32歳になってしまった。ひ弱な10代を過ぎてそれなりに修羅場を経験した今の俺が最初のページから最後のページまで「純文学」で詰まったこの雑誌を読んだらどうなるだろうと不安半分期待半分で読んでみたが、昔図書館の片隅で読んでいた時と同じように何ともわからぬモヤモヤを抱えただけだった。と言うのもこちらは「純文学を読むぞ」と意気込んで読んでいるわけだから、「面白い読み物」を期待しているのではない。むしろ面白くなくて構わんし難解で読むのが苦痛であっても構わない。読み終えた時に世界が確かに変わったような、「衝撃」でも「目から鱗が落ちた」でもいいが、とにかく今までとは全く違った世界や自分に出会えるようなことが起こる事を期待しつつ読んだ。ところが最後のページまで読み終えた時の感想は「何かが掴めそうで掴めない」「しかしここに何かがあって、俺以外の人間はその何かに気付いて掴めるかもしれないが、俺は気付いていないし掴めていない」という、ただの徒労のようなモヤモヤしかなかった。思えばこんな感じを繰り返してきたから俺は純文学雑誌を読まなくなったのだったか。やはり俺には純文学を読む能力・資格がないのか。いや掲載された小説・評論のほとんどが連載物であったからわかりにくかっただけだ。いやいやそうではない、展開される小説・評論はそれぞれ豊饒な言葉、知的でオシャレな言葉、刺激的・挑発的で存在を強烈に主張する言葉を駆使して紙の上で踊っているのであって、連載途中であることは瑣末な問題でしかない。となると俺が悪いだけか。
 どうもそんな気がしてきたが、とりあえず書くことにすると最初の小説「除夜」は中年にさしかかった男女の湿り気を帯びた、しかし要所に渇いたところがある関係を殊更静かに描写することで生々しさが醸し出されている。「望みの彼方」はいかにも軽い言葉、軽い登場人物、軽い事件に序盤はうんざりしてしまうが、その軽薄な舞台を饒舌に書き続けることによってリズムが生まれ、読む側に「何かがある、かもしれない」と思い込ませる不思議な魅力があった。「日本文学盛衰史・戦後文学篇」は平坦でやや投げやりとも思える語り口ながら戦後の一時期確かに存在していた「革命」への考察が鮮やかであった。「末裔」はこの雑誌の中で一番読みやすく面白かったが、初老の主人公が倦怠と憂鬱の中で自暴自棄になりそうでならない、いや理性(世間体)が邪魔してなれない中でただただ苛立っている描写が何とも味があった。評論「村上春樹を英語で読む」は村上の短編小説「象の消滅」について論じていて、「象の消滅」という事件を中心にストーリーの構造に断絶があり、また主人公と主人公の相手となる女性の間に断絶があるということを説明しながら、村上が戦後日本の姿を村上らしいやり方で読者に提示していることを丁寧に検証して読み応えがあり、読むのが楽しかった。「<世界史>の哲学」では「西洋」とは何か、「西洋」とは中世を通じて形成されたという視点に立って、二つのキリスト教(正教とカトリック)、東ローマ帝国西ローマ帝国の対比について論じ、知的好奇心が刺激されよう。「創作合評」では5つの小説についてプロの作家3人が論じていくが、これが難解な言葉がほとんど使われていないのにそれぞれの小説を掘り下げる、というより抉るようにして分析していって…と、ここまで書いて最初から読み返してみて、何とも表層的な、どこかで聞いたことのある借り物の文章だらけで情けなくなります。俺に純文学を読む能力はないし文才もないから仕方ないか。しかしまあ、だからこそまたこのような純文学雑誌を懲りずに読み続けてやるぞとも思うわけで、このモヤモヤを後生大事にしたいとも思うのであった。嗚呼、文学青年への道は遠い…。