完全版 江戸の暮らし[双葉社]

江戸の暮らし (双葉社スーパームック)

江戸の暮らし (双葉社スーパームック)

 さて俺がここ東京に上京してきたのが2005年4月だからもうすぐ丸9年になる。その間1年に3回ほどの間隔で年老いたオカンが俺の小汚い部屋を掃除しに来るが、掃除してもらってじゃあ気をつけて帰れよというわけにもいかんのでどこかに連れていくことにしている。とは言え銀座・新宿・お台場・六本木などの目ぼしいところは大体連れて行ったのでどうしようか、ああ両国に東京江戸博物館というのがあったな、あそこへ行ってみようと連れて行って、博物館の中にあった物販店の書籍コーナーで目に入ったのが本書である。「政局好色」「脱走と追跡の読書遍歴」の読者である諸君ならおわかりのように俺の興味は専ら近現代史で江戸時代というのは今ひとつピンと来ないが、そうは言っても人並みに興味はあるので買うことにした。何と言っても俺は今、江戸に住んでいるのですからね。
 本書はCG、浮世絵、古写真などのビジュアル中心の誌面構成によって江戸時代当時の庶民の暮らしをわかりやすく解説したもので、「18世紀・19世紀頃の庶民に生まれるならば日本に、貴族に生まれるならば英国に」とアメリカの学者が言ったとか、幕末に来日した外国人が「これほどまでにお金が力を持たない国は珍しい」と驚いたとか、「長屋では女子供が大切にされ、寿司や天ぷらなどの世界に誇る食文化が花開き、歌舞伎だ相撲だ祭りだ、果ては吉原だと庶民が暮らしを謳歌していた平和な時代」とか、めったやたらに江戸を称賛しているのが少し鼻についたが(それに「江戸の暮らしは息詰まる管理社会であった」と論じた本を昔読んだことがある)、当時の江戸は100万人が暮らしており、当時のロンドンや北京の人口が90万人、パリが55万人であるから世界一の大都市であった事は事実である。その世界一の大都市で平和に暮らす庶民の文化は我々に懐かしさや驚きを与え、「粋」を教えてくれ、すっかり自信を失った現在の日本人にかすかな誇りを持たせてくれるのも事実だ。というわけで印象に残った記事を抜粋しますので少しでも江戸の雰囲気を味わって下さい。 
<庶民の生活システム>
・高速道路もトラックもない江戸時代は水運・海路が物流の拠点。江戸城を囲むように堀や運河が張り巡らされ、物や人を快適に運んだ。
・リサイクル文化、今で言うところのエコ文化が生活の隅々までに浸透。例えば着物は何度も仕立て直した後、おしめや雑巾になるまで活用。古紙、古金、古煙管、空き箱、古椀、灰、人糞などの不用品を回収する業者がいた。その頃パリでは人糞の扱いに困って窓から投げ捨てられていたが、江戸では人糞専門の回収業者が下取り料金を払って回収していた。
<庶民の生活スタイル>
・長屋とは細長い建物を数戸に区切った集合住宅。入口には長屋木戸が設けられ、午前6時頃に開けられ午後10時頃に閉められる決まりで、不審者が入ってくるのを防いだ。
・火のつけ方は、1.火打石と火打鉄を打ち合わせる、2.打ち合わせて出た火花を杉などの木片に硫黄をつけた附木(つけぎ)に移す、というもの。かなり時間がかかるため、近所から火をもらったり、火鉢で種火を保存しておくことが多かった。
・「井戸」というと湧水を想像するが、長屋の井戸は水道だった。江戸の町中に張り巡らされた水道管(木で造られた管)から、竹の管を通って各長屋に給水する構造。
<庶民の娯楽>
・当時の花火は夕暮れから上がり始め、真っ暗闇になる頃には終わった。「夜空はお月様に譲る」からで、江戸っ子の「粋」を感じますね。
・「勧進相撲」(寺社の修復費用や道橋普請のための費用を集める目的で行われる幕府公認の相撲興行)を見物する客たち。土俵を360度囲むように男たちが集まり(当時の相撲は女人禁制)、その更に周囲には仮設の桟敷席が3階席まで用意され、豪華絢爛なアリーナという感じ。
・矢場(やば)は料金を払って弓を射る遊び場…であるが、客らの本当の目的は矢取り女。外した矢を拾い集める女だが、色を売る裏稼業もしていたのだ。
・三井越後屋などの大店はほとんどが上方商人の支店。政治の中心は江戸、文化の中心は京都、経済の中心は大坂で、上方なまりの商人たちに江戸っ子商人はコンプレックスを感じていたとか。
・江戸にあるそばの屋台では盛りそばの1枚は3、4本の麺が輪状で6つ程度。主食はおろか、軽食までいかない、カフェのサイドメニュー感覚の量だった。
武家の暮らし>
・元日の庶民たちが寝正月を過ごしていた頃、徳川一門と譜代大名は元日登城を義務づけられていた。といっても元日の挨拶や儀式以外に大した用はなかった。
江戸城へ向かう仰々しい大名行列は庶民にとってはパレードの見物のようなもので、変わった武家を見つけて笑いながら見物している庶民の絵も残されている。また殿様の下城まで城外で待つ家臣を相手に団子売りや冷水売りも出現、観光客と一緒に武士たちも時間つぶしと腹ごなしをして過ごした。
<江戸の華と文化>
・「火消し」は、女たちが女房になりたい、子供たちが大きくなったらなりたいと憧れる存在。特に花形は「纏(まとい)持ち」で、纏持ちは「ここで延焼を食い止める」という延焼防衛地点の屋根に登り、いくら火の粉が降りかかろうとも親方が合図するまで一歩も引かない、男の中の男であった。纏持ちがそれぞれ歌舞伎役者のように描かれた浮世絵にその「憧れ」が読み取れる。
・吉原。中級以下の遊女は遊郭の店先に座って指名を待つ。張見世には格子がかかってあって、格子が多いほど格の高い店とされた。
・高級遊女は「花魁」と言われ、美貌・芸事・知性・教養を兼ね備えた才女。大枚をはたいて花魁を指名しても1回目・2回目はろくに口も聞けず、料理にも箸をつけない。それどころか遊女が気に入らなければ振られることもあった。3回目になってやっと床入りとなるが、それまでの出費はかなりのものであった。
・一度、高級遊女の馴染みになれば、他の遊女を指名することはタブーとされ、発覚すれば髷を切られた。当時の庶民にとって髷を切られることは恥ずかしくて表を歩けないことを意味するが(現代でもそうか)、吉原には付け髷をしてくれる店もあったというから、「お仕置き」を受けた浮気者は意外と多かったかもしれない。