講談 碑夜十郎(上・下)/半村良[講談社:講談社文庫]

 えー、皆様、わたくしめにご注目下さい。今夜もまた薬にも毒にもならないあっしのドクショカンソーブンとやつをお届け致しましょう。へい。そんなことはいいから早く碑の旦那を出せと。ええそりゃあもう。今から皆々様の前であの碑夜十郎に大立ち回りを演じて頂くわけでありますが、いかに碑の旦那がすごい御人でもそれなりの準備というものがありまして、そこで碑の旦那が直々に、わたくしのような者に準備が整うまで喋ってくれって言われたんでございまして、あっしを追い返すということはあっしを指名した碑の旦那を追い返すことになるんでございますから、少しの間あっしの話を右から左に聞き流しておくんなさい。
 徳川様が開いた江戸幕府が始まって2百年以上が経ちました天保の時代、将軍家斉様によって統べられ、ペリーだの開国だなんてのはまだ遠い先でありまするから江戸の庶民たちは鎖国の中で平和に穏やかに暮らしておりました。とは言うもののいつの世もほんの一握りのお上の偉い様がふんぞり返って高鼾をかく一方で長屋に住まう庶民たちのほとんどは貧乏暇なしで毎日一生懸命働いて何とか糊口をしのいでおりまして、日々憤懣やる方ない思いをしていたのでございます。それに今の平成の世と違いまして厳格な身分制度の時代ですから、侍たちが火事の火元を無理やりあそこの誰某の家だと濡れ衣を着せたり、医者は身分の高いお侍様を診るのであって庶民とは違う世界の人間というのが実に常識となっておりました。そんな時代にやってきたのが美藤純一、じゃなかった碑夜十郎様でございます。いやいや何で名前を間違えたのかと言いますとこの「碑夜十郎」という名は後から付け足した名前でして、実はこの旦那、天保ではなく昭和の時代の人なのでございますが、どういうわけか天保の時代に放り込まれたわけであります。それも素っ裸で。
 そんな素っ裸で気を失って倒れていた碑の旦那をたまたま見つけたのが器量よし性格よし面倒見よしの頼りになる姉御・お絹さんでございます。このお絹さんとやらが近所で評判の色香漂う年増でありながら裏の顔は泣く子も黙る大泥棒っていうんだから吃驚仰天、しかもこれがいわゆる義賊でありまして、今日明日の生活に困る人たちのために悪事を働くという按配でいよいよ江戸ものらしくなってまいりましたが、とにかく素っ裸の男を放っておくわけにはいかないってんで家に持って帰りましたがこれがなかなかの美男子なわけでして、本来美男子などが主人公の小説なんてあっしは大っ嫌いなんですが、よくよく考えたら江戸の女たちの考える美男子なんて想像すらできませんからこれはこれでいいのであります。もしかしたらあっしのこの顔だって江戸の女にはなかなか味があって良い、となるかもしれないのですからね。まあ冗談はさておきましてやっと起き上がったこの男、名前もそれまでの記憶も全部忘れちまってるってんで「碑夜十郎」と名付けましたが、どうやら剣の達人らしいのであります。そうすると何せ近所で評判の年増の家に突然美男子で剣の達人が同居、つまり同棲しているわけでありますから何だ何だと一癖も二癖もある連中がやってきて、碑の旦那はあれよあれよと言う間に事件に巻き込まれていくのでございます。
 ちなみにこの碑の旦那は昭和で剣道部だったらしくそんな体育会系の主人公の小説なんて読んでも面白くも何ともないですが、なあに江戸時代の人間なんて背は小さいし動きもゆっくりだろうからあっしだってそれなりに活躍できそうなものではございませんか。はっはっは。で、この旦那、「とにかく俺は昭和の時代の人間なのに江戸の時代に連れてこられた。だからこの江戸で、自分が生きる存在価値を見つけなければならん」って困っている人を助けるために大活躍をするのであります。ま、そのあたりは勧善懲悪の講談物ですからお約束ではございますが、その脇を飾るのはご存知天保六歌撰の連中でありまして、これがまた苦み走った好人物ばかりで全く皆様を飽きさせません。碑の旦那に女房のお絹、天保六歌撰とその他江戸の庶民たちが力を合わせてお上の横暴に立ち向かっていく愉快痛快時代娯楽劇、それが本書なのであります。
 しかしでございますよ、江戸の女ときたら滅法色気があるのにおしとやか、しかも押すところと引くところをちゃんとわきまえているから独身物のあっしには目の毒でございました。まあこれは作者の描写がいいって事なんでしょうが、「女房が亭主の後についていくのは当たり前のことでしょう」とか「(「すまないが、お絹」と言われて)なんですよ、水臭い。女房に何か言いつけるときは、叱りつけるように言ってくれればいいじゃないか。すまないが、なんて他人行儀であたしゃ嫌い」とか言われたらね、平成で言うところの「萌え〜」ってやつじゃないですかお客様。はっはっはっは。
 おや、だいぶ喋りすぎちまったようでございます。それではあっしはこれにて失礼させて頂きます。これから碑の旦那達の大立ち回りが始まりますので、皆様どうぞお楽しみ下さい。