山県有朋/半藤一利[筑摩書房:ちくま文庫]

山県有朋 (ちくま文庫)

山県有朋 (ちくま文庫)

 近代国家として世界五大国の一つにまでのし上がった明治日本を支えたのは伊藤博文山県有朋であり、日本でこの二人の名を知らない者はいないが、この二人は面白いほど水と油、陽と陰であった。伊藤は攘夷高揚のさなかにあってもイギリス密航を企てたほどの国際的視野を持つ柔軟な政治家であったが、山県は頑固な国家主義者・皇室主義者であり、死ぬまで権力に執着した軍人であった。伊藤は議会と政党の重要性を見抜いて自らが政党の党首となったが山県は「政党政治は皇国の精神に背き、国体に反する」と政党の存在を決して認めようとはしなかった。山県という男は常に慎重に言行を行い社交的な会にはほとんど出席せず、派閥を育成して反対派を追い落とすことに全力を傾け、子分育成のために勲章や爵位を使うような人間であった。誰がそんな人間に親近感を持つだろうか。山県の死後行われた国葬を伝える新聞は「この寂しさ、冷たさは一体どうした事だ。席も空々寂々で、武と文の大粒のところと軍人の群で、国葬らしい気分は少しもせず、全く官葬か軍葬の観がある」と書いた。明治の当時でもそれほど嫌われていたのである。
 しかし山県は俗に言う「悪いこと」をしたわけではない。彼は「明治の元勲」に指定されるくらいであるから、日本国家建設にこの上ない力量を発揮している。特に武士制度を廃して徴兵令を敷き、軍隊を「天皇の軍隊」として統一させ、アジア各地に進出する西欧列強に対抗するため日本を立派な「軍事国家」に育て上げたのは一にも二にも山県の功績である。しかしそのために山県は手段を選ばなかった。文官が軍人の上に立つことによる混乱を防ぐために参謀本部を設置し、参謀本部天皇に直属させることによって政府から独立させた。あるいは天皇の裁可を得た軍令は首相の副署や枢密院・法制局の審査を必要としないこととした。そのために陸軍増師問題で退陣に追い込まれた西園寺首相は「統帥権がそのようなもの(内閣の方針に従わない)であるなら、国家の外に国を立てようとするに等しい」と悲痛な叫びを上げているが、山県は意に介さなかった。
 また明治という時代は大日本帝国の建設が着々と進む一方で自由民権や社会主義思想が民衆に静かに浸透していく時代であったが、これは山県にとって脅威であった。何としてでも大日本帝国を完成させなければならず、そのためには天皇を頂点とする国体を守らなければならない。大日本帝国天皇に帰一する国家であり天皇国民の道徳的統一体としての国体は世界に冠たる伝統だという信念をもとに「教育勅語」が山県内閣の時に作られた。宮城遥拝が日常的になり、現人神としての天皇信仰は山県の理想通りになった。もちろんそれに伴って山県自身の地位も恐ろしいほど上昇する。
 ところが、山県は天皇にとって必ずしも信頼できる相手ではなかった。一にも二にも天皇が寵愛したのは伊藤で、伊藤の天真爛漫さに比べ山県の陰険さは天皇にとってとても心休まるものではなかった。しかし山県にとって明治天皇は自身の(そして大日本帝国の)力の源泉である。日露戦争後、糖尿病や慢性賢臓炎を併発し弱り出した明治天皇を山県は決して休ませなかった。神としての尊厳を失ってはならないからである。明治45年7月15日、枢密院の会議に出席した天皇は相当弱っていたのかうとうとと仮睡するが、議長席でそれを目撃した山県は軍刀の先で床を強く何度も叩いた。天皇崩御したのはその15日後のことで、跡を継いだ大正天皇については「天皇は皇太子の頃から自分を好まれず、天皇となられた今日では嫌っておられる」と側近に語っているが、だからと言って山県という男は栄華を極めたその権力を手放すような男ではなかった。原敬は「山県の胸中には皇室も国家もない」「一己の欲望を逞うする外、毫も皇室国家の為に計りたる事跡なし」と日記に書き、大正デモクラシーがやってきて時代が変わろうとする頃に起きた「宮中某重大事件」によって山県の権威は地に堕ち、間もなく寂しく世を去る。だが山県が残した「統帥権独立」「帷幄上奏権」「軍部大臣現役武官制」は妖怪のように生き残り、やがて大日本帝国を滅亡に追い込むのである。
 山県は伊藤と並ぶ明治の巨星であるが、作者は「最後までこの男に親近感を持てなかった」と言い、本書を読んだ俺も同感の思いだが、それでもこの男に妖しい魅力があるのも事実である。西郷隆盛木戸孝允大村益次郎といった幕末・維新の功績者が次々といなくなり、結果的に生き延びただけの山県は、「一介の武人」として、「天皇」を中心とする大日本帝国を創造した。さて、今の政治家たちと日本人たちは日本国をどのように創造すべきだろうか。