- 作者: 井沢元彦
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2005/05/01
- メディア: 文庫
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本書は15〜16世紀を中心に琉球王国・倭寇・戦国大名(毛利元就・武田信玄・織田信長等)について書かれ、どれも面白いので何から紹介していいのか困ってしまうが、まあ時間の許す限り書くことにしよう。例えば「倭寇」であるが、一般的な常識としては「倭寇=日本人海賊」のことであり、後の朝鮮出兵と並んで日本人にとってあまり触れられたくないものである。なぜかというと中国や韓国がうるさいからだが、実は今や「14〜15世紀の倭寇の8割が高麗人で、16世紀の倭寇の8割が中国人(明国人)だった」というのが学界の定説であるばかりか、当時の高麗人や明国人が残した史料にもはっきりそう書いているというのである。もちろん残り2割はまぎれもなく日本人だったのであるが、8割は他国人であったのである。これは歴史的事実である。
ではどうして明国人が倭寇と名乗らなければならなかったかというと明国が海外貿易を禁止したからである。これは中国の商業(貿易)に対する伝統的な蔑視によるものであるが、しかし海外貿易を取りやめるということは流通や商業をストップさせることであって、経済の根本に関わるこれらの活動を「やめろと言われたからやめる」ことなどできない。これによって明の海外貿易者はたちまち「犯罪者」となり、犯罪者に成り下がった貿易商人たちの綱紀は緩んでその頃発生していた「倭寇」の名を使い各地で強奪・略奪を繰り返すことになったというわけであり、作者は「倭寇は海外貿易禁止という明の失政に起因する国内問題」と断言する。
その「中国人主体の倭寇」がいつの間にか日本人の所業となった原因は中華思想と朝鮮出兵である。中華思想とはもちろん「中国が絶対に正しい」という思想であるから、失政や混乱も「中国は悪くない。外国あるいは外国人が悪い」ということで明国政府は日本人のせいであると大々的に宣伝し、それから間もなくして秀吉の朝鮮出兵が行われたことからいよいよ中国人に「倭寇=日本人海賊」という「常識」が生まれたのである。またそこで現代の日本人が「よくわからないけど相手が怒っているので誤っておく」という文化に則って低姿勢でいるものだから「弁明をしないなら悪いと認めたんだな」「すみませんと言うならお前の責任だ。全額賠償しろ」という「国際社会の常識」的考えから糾弾されるわけである。確かに俺も国際政治を見ていて外国の外交官の面の皮の厚さにうんざりすることがあるが、むしろ国際社会ではそれが普通であって、日本の方が異常なのである。「倭寇」一つ取っても歴史は色々な教訓に溢れている。
戦国時代編では朝倉孝景や毛利元就について書かれてあるが、やはり面白いのは武田信玄と織田信長との比較であった。武田軍は「戦国大名最強軍団」と言われ、「あと10年長生きしていれば信長の天下はなかった」とも言われているが、信玄にはとても天下統一を目指すだけの器はなかったというのが作者の結論である。なぜなら天下統一とは文字通り「自分が日本を統一する政権を作る」ことであり、それまでの既存の諸勢力を全てぶち壊さなければならず、それを意識して行動したのは信長ただ一人だったからである。
「信玄」という出家名からわかる通り、信玄は仏教勢力(寺社勢力)の一員であった。そしてこの中世の寺社勢力というのが現代の我々からは想像できないほどすごいもので、荘園・関所・座・市の経済利権を全て握り、吸い上げた金銭を自分のためだけに使い、また強大な武力(僧兵)をもって巨大な政治力を有していたらしいのである。現代風に言えば「圧力団体と暴力団が提携している状況」であって、そのせいで一般国民の生活はひどいものであった。しかし当時の常識では大きな力を持つこの寺社勢力を味方につけることが天下統一(或いは自国領土の拡大)の近道で常識だったのであり、「それでは所詮この寺社勢力の内部に組み込まれるだけであり、何より国民の支持も得られない」と気付いた信長の方が非常識だったのである。しかしどちらの考えが正しかったかを我々は知っている。この寺社勢力を叩きのめすことができたのは楽市・楽座政策を断行し関所を廃止した信長であって、贈られた法衣をまとって悦に入っていた信玄ではない。野蛮・残酷の極致と言われた「比叡山焼き討ち」後も信長政権が国民に支持されたのは当時の寺社勢力が国民にどう思われていたかを示している。
また現代の日本人で織田信長を知らない人はいないが江戸時代の信長の人気はさほどでもなかったようで、これこそ歴史の評価が「評価する人々の時代背景によって左右される」証左であるが、なぜ江戸時代に人気がなかったかと言えば江戸幕府そのものが徳川家の人間が代々将軍を継ぐという「同族会社」であったからである。実力があっても徳川家や徳川家に深い関係にある大名でなければ政府の幹部に登用されることはなかったのであり、織田信長が行った「完全な実力主義による登用」とは真逆のシステムであった。豊臣秀吉や明智光秀は諸国を放浪し織田家とは何のつながりもないところを信長の「完全な」実力主義によって登用された、いわば「多国籍企業」と言えるもので、同族会社が普通であった江戸時代にそのような企業が支持されるわけがないのである。ちなみに武田軍の参謀として名高い山本勘助のポストは「足軽隊将」であり、これは重役でも部長でもなく「課長」レベルである。信長の存在がいかに革命的だったかがわかる。
というわけでとりあえず印象深かったところを書き連ねてきましたがキリがないのでこのへんで。皆さん、明日は選挙に行きましょうね。