文藝 2009年夏季号[河出書房新社]

文藝 2009年 05月号 [雑誌]

文藝 2009年 05月号 [雑誌]

 これほど読むのがしんどかった本というのも珍しい。まあ普通だったらこんな本を俺が買うわけがないので読むわけがないのだが、よく行く図書館に「雑誌リサイクルコーナー」があって「ご自由にお取り下さい」と書いてあってこの雑誌があったから持って帰って読んだまでだ。もちろんそこには「俺はラブコメ、政治、変態を売り物にしているが、実はこういう文藝雑誌も読むんだぜ」とアピールしたい下心があったわけですが、こんなにしんどいことになるならやはり読まなければよかった。
 現代短歌(でいいのか?)の旗手(なのか?)の特集から始まった本書は谷川俊太郎との対談で「卑怯な人が百メートル走で世界記録を持ってもまあいいと思いますが、卑怯な人が素晴らしい彫刻を彫るというのはかなり抵抗があるし、卑怯な人が詩を書くことにはもっと抵抗があるんです」と言い、「居酒屋で『マスター、ノダちゃん最近どう?』みたいに言ってる人を見るとピクッとして、『マスターって平気で呼ぶ感覚が許せん』『この醜い奴らに自分の言葉を熱湯のようにぶっかけて目を覚ましてやる』と思ってしまう」と言い、名前は聞いたことのある41歳の女作家との「恋愛にまつわる対談」では「恋愛ってそういう理由や物語の上位概念じゃないのかなあ。うまくいってる時は別々の方向を見ていてもうまくいくし、恋愛そのものの期限切れというのが本当はリアルなんじゃないかという気がする」「男性はスタンプじゃなくてメーターシステムっていうか、メーターのように好意が増減して、たとえ暗い豆電球のようになってしまっても、まだついている。でも女性はちょっと前までちゃんとついていても、パチンと切れちゃったら終わり。『ちょっと前まで明るかったのに今は真っ暗だ』みたいな」と言うのである(女作家の方も「女性って減点法とかプラス方法とかやりますもんね。お付き合いを100点で始める人と0点で始める人といるんですね」「『私のどこが好き?』は恋愛の中でしか通用しない大切な通貨です。『手の形』でも『指の形』でも『目』でもいい。『内面だったらこういうところ』とか、できるだけ細かく答えるのが正解なんです」)…。
 二次元の見目麗しい快楽の世界に逃げて時々性欲処理のために池袋や五反田の風俗に行く俺がこんなものを読んだらどうなるかは容易に想像ができよう。反吐が出るとはまさにこの事であったが、続いて載っていた小説を読み進むにつれて結局この雑誌は都会に生きる文学好きでオシャレをオシャレとして特別扱いすることなく自然にこなすことができる特定の層のための洗練された雑誌であることがわかってきた。所詮俺のように年齢を重ねるにつれてもともと醜かった容姿が更に醜くなっていく人間には縁のない世界なのだ。しかしそういう人間でもこういう雑誌を読むことができるのだからこの世は素晴らしい読書はやめられない。特に中編「掏摸/中村文則」は読み応えがあって、アウトローな世界に生きる人間が徐々に更に深刻なアウトローな世界に絡めとられていく展開が静かな語り口で(時に自暴自棄なほどに静かに)、透き通るほどの純粋さで描写され、失うものもなければ得るものもない状況の中でもやはり何かにすがり何かに嫌悪する人間の姿が生々しく感じられた。とはいえこれ以外の小説は滅茶苦茶で、気ままにオシャレに振る舞っていざとなればトレンディドラマから出てきたような素敵な男が向こうからやってくると勘違いしているような女がダラダラと語っては何事もなく終わるような小説を二つ読まされ、説明するのも面倒くさいわけがわからん小説を更に一つ読まされた。これらに比べれば高橋源一郎の小説の方がまともに見えるのだから困ったものだが、まあ色々な本を読む事で色々な体験ができるということですかな。だから本を読むのはやめられませんというわけで俺も短歌を一つ。「君たちよもうやめてくれ公園でセックスのために服を脱ぐのは」