政策よりも政局

 「政局より政策が大事」と言う人がいて、俺にはそれが不思議でたまらない。政策は官僚や学者や専門家でも作ることができるが、複雑な利害が渦巻く人間社会と謀略が渦巻く国際社会においてその政策を実現させるためには政局という権力闘争を勝ち抜かなければならないからである。どんなに優れた政策であっても政局を乗り越えることができなければ絵に描いた餅になる。そして頭でっかちの官僚に政局を乗り越える力はなく、ただ「この政策が正しい」と言って力で押し切るだけなので国民はいつまでも不満を抱えることになるのである。それでなぜ「政策の方が大事」になるのか。
 また政策は変わることもある。政治は国民からの負託を受けて行われるものであるから、国民が支持する政策と自分の考える政策が違っていれば国民の支持する政策に変えなければならない。「この政策が正しい」と決めるのは国民である。ところが日本では政策転換した場合、「前に言っていたことと違う」と言って非難される。「国民より政策(の一貫性)が大事」だからであるが、それではもはや官僚主義である。民主主義では国民の代表が集まる国会で過半数を得た政策だけが実現することを許されるのであり、その過半数を得るための戦いが政局なのである。そのため複雑な策を弄することがあり、「飴と鞭」を使うことがあり、ポピュリズム的手法を使うこともある。これが官僚には許せない。官僚は「国民より政策が大事」なのである。そのため官僚の操り人形となる政治家には有益な情報を与え票を与え、自ら情報を集め票を掘り起こす政治家(そのため莫大な政治資金がかかる)は検察を使って「巨悪」に仕立てあげられてきた。
 しかし国民の支持がある限り政治家は何度でも息を吹き返すことができる。新党「国民の生活が第一」の小沢代表が今でも政治の中心にいるのは少なからぬ国民の支持があるからである。ではなぜ小沢は国民に支持されるかと言えばこれまで既成の政治体制を次々と壊してきたからで、「壊し屋」小沢は官僚が政策を全て決めていた自民党一党支配の体制を44人で作った新生党によって壊し、その後自由党を率いて自民党と連立した時には官僚答弁禁止、副大臣制、党首討論などの政治主導を実現させ国会から官僚を追い出した。それからも小沢への攻撃は激しさを増したが、ついには国民によって政権を交代させることができた。官僚やマスコミなど既成の政治勢力にとって何としても倒さなければならない相手となった小沢は操作報告書の改ざんによって法廷の場に引きずり出された。そして民主党は分裂し、総選挙で支持された民主党マニフェストの政策は実現されなかった。「小沢抜き」を画策する民主党が次第に官僚の神輿に乗るようになり、マニフェストを放棄して「国民より政策が大事」の道を歩むようになったからである。
 そのため小沢は民主党を飛び出し再び既成の政治勢力と戦うことになったが、それをマスコミは「追い詰められた果ての自殺行為」と冷笑している。しかし本当に冷笑しているのは小沢の方である。人生の最後の大勝負をかける人間が最初から手の内をさらけ出すはずがない。「新党に50人集まらなかった」からどうして「追い詰められた」ことになるのか。民主党に留まって情報収集する人間を残し、不信任案を単独には出せない絶妙な数を維持することによって野田首相はジワリジワリと追い詰められ、やがて民自公内から増税路線に反対する人間が出てくる。また地方からは新党が立ち上がろうとしている。
 これらの構図は1993年の総選挙に酷似している。熊本県知事であった細川氏自民党と官僚による中央集権体制を批判し新党を結成して国政に挑み、自民党一党支配の温床であった中選挙区制を壊そうとした小沢と手を組んだ。そして総選挙で自民党は負けなかったが(改選前222議席→223議席)、小沢によって「非自民・非共産」の連立政権が発足し、圧倒的に第1党であった自民党が反対した選挙制度改革は実現することとなった。この時の「選挙制度改革」が今回は「消費税増税」になる兆しであり、当時の社会党が今の民主党に、そして地方首長による新党が細川新党になりそうである。
 この政局の白眉な点は最後の決定権は国民にあるということである。消費税という極めて国家的で長期的な政策を国民が判断するのである。ところが「消費税は『待ったなし』」と言われて最優先され、予算執行のために必要な「赤字国債法案」はいまだに成立していない。国民の生活のための予算執行よりも消費税という政策が大事なのであり、そのような官僚支配の体制を1993年の総選挙で結局覆すことができなかった小沢が、今、最後の大勝負をかけようとしているのである。