耳の物語/開高健[イースト・プレス:文庫ぎんが堂]

 恐らく酒が飲めない人間に本書の面白さはわからない。だから酒が一滴も飲めない俺には本書の良さはわからないが、だから読んではいかんというわけではない。「私」抜きの一人称によって語られるこの私小説で作者は逃げるように、或いは苦行のように常に酩酊し泥酔しながら、屈辱、陽気、絶望、諦観、恐怖、倦怠、歓喜、憂鬱、等々に彩られたこれまでの人生の内的独白を展開してゆくが、それらはとめどなく溢れ出るだけでどこにも着地せずひたすら宙を遊泳するだけである。また作者の前を通り過ぎていった人々や景色は時々靄がかかったようにかすんで曖昧模糊として、読むこちらは手探りどころの話ではない。目に入る文章は確かに文章としての体裁をしているが光と闇を同時にばらまいたように繊細さと粗雑さで脳に送りこまれ、読者はただ困惑して頁をめくる手は空回りする。しかしながら先を読まずにはいられない。何とも滑稽な読書体験であったが、この場合「滑稽」なのは作者ではなく読者だという気もする。
 作者の前を鮮烈に現れては霧が晴れるようにいつの間にか消えてしまう周囲の人々と景色に比べて、生きることに何ら情熱を見出し得ない作者の焦燥、衝動、苦悩、切なさは鋭いナイフのようだが、それも最初だけのことであり次第に酔いが回ってきて呂律が怪しくなるように鋭さは磨耗され最後にはこれも霧のようにいつの間にか消えてしまう。そのため新鮮な不安を無意識に求めて次から次へと作者は彷徨い、女と出会い女を孕ませ、サラリーマンから作家となり、何も書けず何もできず海外を放浪するうちに戦火のベトナムへと流れ着き、自然の中で釣りに没頭することで何とか生きることの手応えと醍醐味を手にするが、それはまたいつの間にか消えてなくなり、酒を求める、を繰り返す。劇的で激烈な体験をすればするほど、身体の中に蠢く「生」そのものへの苛立ちと無力感が姿を現すが、それらをそのまま、突き放すようにして描写することで文章にリズムが生まれ、突然、はっきりと、存在感を持って、それは「音楽」となる。もちろんそれは通常我々が接している「音楽」ではない。人間の内なる鼓動によって紡ぎ出される原初的な躍動感であって、それは絶望の淵に沈もうが官能的な快楽の極みに達しようが体内に静かに流れる音のないメロディーである。
 アラスカのカーラジオから流れる「アダージォ・イン・ジ・マイナー」やアマゾンのボロボロになった携帯ラジオから流れる「アパッショナータ」が作者の耳に入った途端に一瞬の閃光と共に物語は生まれるが、それは作者が内に流れるメロディーを常に遊泳させてきたからであろう。曖昧でぐにゃぐにゃな言葉と文章であってもその底流に流れるメロディーが輝くことでその小説世界全体が活き活きとして輝き、作者が戦ってきた倦怠と無力感はそのメロディーであったことがはっきりとわかる。長く辛く退屈な人生にふと訪れる一瞬の閃光のために作者は書き、読者は読んだのだ。そして作者は最後の最後にこう言うのだ。「瞬間は不意にやってきて座りこみ、瞬時に立って去った。画は一瞥で見る。書物は1回しか読めない。音楽は1回しか聞けないのだ」。
   
 むしろ一人酒のほうが底なしになりやすいことを発見した。じわじわと一滴ずつ用心して酒を滴下していくうちに全身の血管があたたかくざわめきはじめ、しらちゃけて荒涼として無残な一日の第一部が消え、やわらかな電燈の光のなかで第二部がはじまる。体内の圧力と体外の圧力が同じになり、間断ない歯痛のような、とらえようのない不安が消える。そして壁に映る影を相手に、内的独白をサカナにして、記憶と自我を気ままにふくらませたり、縮めたりして飲んでいると、瓶一本ぐらいを倒すのはやさしいことであった。一人酒がいいのは翌朝になっての精神的宿酔がゼロだという点で、他人と泥酔しあった翌朝のいてもたってもいられない、全身をあぶりたてるような恥しさや汚辱の嘔吐物が一片もない。前途にこの泥のような憂鬱のない安堵感が一人酒をいよいよ底なしにさせるようである。雨上りのほの暗い森かげにある、ツタに蔽われた煉瓦塀や、初夏の夕方に寺の涼しい門が大きく開かれて、打水の光った御影石がまざまざと見える…いつもふいに意味も動機もなくあらわれて、ただ歓ばしく漂うだけの光景を眺めていると、郷愁でわくわくしてくる。故郷のある光景ではないのに細胞の核からたちのぼってくるのは胸の痛くなるような郷愁である。ときには不安をおぼえるほどいきいきと力強さが湧き立っていることがあり、誰かに見られているのではないかと、思わず背後をふりかえりたくなることもある。
  
 白昼の光のしらちゃけた胸苦しさに耐えかねて日中から雨戸をたて、何日間もたてっぱなしにしておいて、夜から夜へという暮らしかたを続けたこともある。暗がりに息をひそめるようにして座りこみ、ちびちびとウィスキーをすすり、酔いで外圧や内圧を中和したり、拡散したりするのだが、戸外の子供の笑声、叫声、主婦たちの雑談、遠い電車の音、野球のボールのはじける音などを聞くともなく聞いていると、湿った暗い土のなかにひそむ眼も牙もない小動物になったようであった。激しい、張りつめた、体を状況にたいして正面からひらいて立向かう経験をしたためにその反動として弛緩が生じ、そこから憂鬱と無気力が分泌されて酸のように心身を犯しているのだとするなら、何とか手のうちようがあると考えたいのだが、そうでもあり、もっとしばしばそれだけではないと感知させられるものがあって、いよいよのめりこんでいく。アリジゴクのとどまりようのない斜面をずるずるとすべり落ちていく。極端な運動不足と、とめどない独白のために蒼白くむくんで肥厚し、アフリカの子供のように腹が膨張する。神経衰弱にかかった豚だと失笑したくなるのだが、笑いが声にならない。酔いの、熱い、キラキラ輝く霧のなかで汗ばみながら、内的独白が狭苦しい部屋いっぱいに枝をはびこらせ、葉を繁らせ、からみあい、もつれあって呼吸するのを感じさせられる。決意、剛健、克己、忍耐がその饒多を切りはらってくれるはずだが、ことごとく東南アジアや、アフリカや、中近東のどこかで霧散してしまったらしく、何ひとつとして血管にこだまするものがない。死を介してこそ生ははじめて十全に味得されるのだ。その秘儀を知らないかぎり君はいつまでも地上の夜のかなしい客人にすぎぬとゲーテは喝破した。しかし、火をめざして蛾が突進し、体を焼かれる瞬間に体をひるがえし、十全の生を味わって全身でふるえたとしても、生き延びた蛾はやっぱり蛾にすぎないではないか。死の舞踏を繰り返すだけのかなしい客人にすぎないではないか。