「情」と「理」

 政治は国民の生命と財産を守り、国家を運営することであるから、合理的且つ理性的に動くことが求められる。ところが政治を行う人間は感情の動物であるから、合理的且つ理性的に動くとは限らない。景気が悪いのも失業するのも病気になるのも全て「政治が悪い」のであり、その不満は特に選挙や世論において発揮される。そして民主主義政治においては選挙や世論は何よりも大事であるから、「政治は説得の技術」と言われる。それは感情で動くことを否定しているのではない。国民に渦巻く「感情」をいかにコントロールするかが政治に問われることを意味している。
 例えばそう遠くない時期に消費税を引き上げなければならないことは誰もが承知しているが、実際にそれが家計や企業に影響を与えるのではたまらない。そこで説得の技術として民主党は2009年総選挙のマニフェストで「4年間は徹底的に行財政改革を行い、その上で次の総選挙で消費税増税の審判を仰ぐ」とした。また子供手当て等を率先して行うことも、その見返りとして消費税を引き上げるという考えにつながるから説得技術の一つであった。これに焦ったのが財務官僚である。財務官僚は自分達の意のままに操ることのできるマスコミを使って日本の財政状態がいかに危機的な状況にあるか、4年間も悠長に待ってはいられないと煽ることで民主党政権の無能さを強調した。しかし財務官僚の言っていることは結局「財政状態が悪いので、税金は高くして、公共サービスは縮小しましょう」と言うのに等しいわけで、これでは国民は納得しない。しかし民主主義の何たるかと選挙の恐ろしさを知らない官僚に「説得の技術」は必要なく、「合理的に理性的に考えれば消費税を上げるのは当然だから、上げろ」という意識しかない。そしてこの国では昔も今も官僚が主導権を握り、優秀な政治家は官僚に使い捨てられてきたのである。
 官僚に操られた政府・マスコミと、消費税引き上げに反対し「原点であるマニフェストに帰れ」と主張する小沢グループはその「説得の技術」によって対立しているのであり、どちらが国民の側にあるかは一目瞭然なはずである。ところがマスコミは「震災後の大変な状況のなかで対立している場合か」と批判する。非常時なので大連立や挙国一致体制を作れということなのだろうが、それは挙国一致を率いるに足るリーダーがいればの話である。国民(及び国民の代表である国会議員)が現在のリーダーをリーダーとして不適格であると判断したならば変えなければならない。経済危機の渦中にあるイタリアやギリシアはそうしたが、日本では不適格なリーダーを降ろすことに成功しても「在任日数の短さ」を嘆くのみである。これもまた理性よりも感情が優先された結果で、不適格なリーダーを選んだ自らを恥じ、海外と違って指導者が1年おきに代わることの恥ずかしさに耐えられないから「コロコロ代わるのはたくさんだ」となるのだろうが、無能な指導者が4年も5年も居座るよりはいいはずである。我々は感情で動く人間であるが、「リーダーを選ぶ」のは他ならぬ我々であるから、できる限り合理的な判断が求められるはずである。
 また民主党政権を「解散に追い込む」という自民党は消費税増税に賛成であり、もし解散総選挙となれば民主も自民も「消費税に賛成」と言いながら内に「消費税に反対(もしくは慎重)」の勢力を抱え込むことになる。単純に「民主党が駄目だから自民党に」「自民党が駄目だから民主党に」とはいかないのが日本の政治であり、なぜかというとどちらの党も官僚の顔色を窺っているからで、そうすると去年秋頃から囁かれている新党や政界再編は対立軸を明確にするという意味では合理的である。
 政治は人間によるものであり、人間は「情」に左右される。その「情」を宥めながらも、重要な局面においては「理」で判断しなければならない。それが国家の行く末を左右する。震災後の危機的な状況では「情」ではなく「理」で判断しなければならないことが今後更に出てくるであろう。それを政治家がどうコントロールし、我々国民がどう処理するかであって、それが2012年の政治に問われている。