税金の無駄使い

 国民が自分達の力だけでは自らの生命と財産を守ることができないと判断した時に国家が生まれる。国民は税金や労働力を投入して国家の基礎を作り、実際にその国家を運営する人がいるために人を雇う。その「人」が官僚である。官僚は国民の税金によって雇われ、その国民の税金を使うことが仕事である。だからその税金を無駄に使うことは許されない。もし無駄使いをしたいのなら、国民か、国民の代表である国会議員に了解をもらわなければならない。事実、国会で「無駄使い」は了承を得てきた。予算委員会で予算案の議論はされずに可決されてきたからである。
 予算委員会で予算の議論がされないのはなぜか。誰も予算の議論に関心がないからである。関心があるのはスキャンダルの追及であり、首相や大臣を追い詰めれば追い詰めるほどマスコミも大衆も喝采する。更に証人喚問ともなれば大衆は熱狂し追及する側はヒーローになる。いかにも悪人面した人間を引っ張り出すことで国民の溜飲は下がり、正義を振りかざして罵詈雑言を浴びせれば浴びせるほど大衆は熱狂する。しかしながら国会に司法機能はないので証人は証言を拒否することができる。だから真相を解明することができないのはわかりきった話である。大体、司法の仕事を立法府にやらせるのは時間の無駄であり税金の無駄である。
 自動車の制限速度60キロの道路を61キロで走れば違反であるが、それで逮捕され起訴されることはない。極めて厳密に運用すれば道路交通法違反であっても、そのために時間と手間をかけるのは非効率で税金の無駄だからである。何が言いたいかというと小沢元代表の政治資金「4億円の記載ズレ」はまさにそれと同じであって、いつの間にか「水谷建設からの裏金」がその「4億円」に含まれているかのごとく報じられているが、検察はあくまでその「記載のズレ」を「虚偽記載」として起訴しているのである。しかしただの形式的なミスを「虚偽記載」として、大々的に税金を使うのは無駄使いでしかないではないか。
 五十五年体制下、政権を取る気のなかった社会党は(候補者全員が当選しても過半数には及ばない)マスコミや国民の関心を惹きつけるためひたすらパフォーマンスに徹し、証人喚問等の派手な舞台で立ち回ることを至上命題として予算の議論を生真面目にやる気など毛頭なかった。その時代が38年も続いたために「野党とはそういうものだ」という意識がマスコミにこびりついた。だが司法機能のない立法府で司法の下請けをさせるのは時間の無駄であり、税金の無駄使いでしかない。税金の無駄使いをしながら、無駄使いを多く含んだ予算案にほとんど目を通すことなく成立させ、予算案とは何の関係ないことを報じるマスコミによって無駄使いは続いていくというのが日本政治の構図である。だから長年政権を担ってきた自民党が野党になった時こそその構図を変えるチャンスであったのだ。しかしそれが無理であることはもう明白で、俺が「民主党より自民党の方が深刻」と言っているのはそのためである。このまま民主党の敵失で自民党に政権が転がり込むことを想像した方が恐ろしい。そのようなスキャンダル追及文化を断ち切るチャンスが失われてしまうではないか。
 官僚は国民によって雇われている。その官僚が国民の知らないところで税金を無駄使いしないよう政治家もマスコミも監視しなければならないのであり、「説明責任」は小沢だけでなく「形式的な『虚偽記載』のために時間と手間をかけ」た検察にも求められるはずである(「捜査中のため答えられない」のなら、秘密会を開けばよい)。また予算案を議論せず立法府の役割を放棄して「証人喚問やれ」「予算案よりも『政治と金』の問題が重要だ」という政治家もマスコミも、無駄使いの片棒を担いだのだから「説明責任」を求めても変な話ではない(特に新聞の論説は今やひどい有様である)。税金とは国民の血税である。この国ではその事に対する意識が低過ぎる。無駄にしていいお金など1円もない。俺は極めて当たり前のことを言っている。