検証 海部内閣/毎日新聞政治部[角川書店:角川文庫]

 なるほど。政治関連の本を読んでいるとよく「この2〜3年こそ経世会支配の絶頂期だった」「この年以降、派閥の影響力低下がより鮮明となった」といったマクロ的な総括がいとも簡単になされ、読む方も特に疑念を感じることなくそれを読み過ごしてしまうが、本当にその2〜3年は経世会がずっと支配し続けて他の派閥が抵抗しなかったのかどうか確かめたわけではないのである。仮に表面上は経世会が実権を握っていたとしても水面下では他派閥からの攻撃がひっきりなしにあり、その対応に経世会側も苦慮していたかもしれないではないか。そうするとその時代に対する印象も全く違ったものになるわけで、当時の新聞や雑誌等を詳細に読まず「この時代は経世会支配の時代だった」といけしゃあしゃあと断定していた俺は阿呆であった。大いに反省します。
 というわけで本書は1989年夏の参院選から1991年夏までのわずか2年間の政局模様を追ったドキュメントである。この時期の資料と言えば鈴木棟一の「田中角栄VS竹下登」の4巻があるが、「田中角栄VS竹下登」の方が当事者のやり取りや密談・密会に重きを置いているのに対して、本書はあくまで記者会見や委員会等での公の発言を重視しながら時の政局力学がどういうバランスにあるかを分析したもので、また違った角度からこの時期の政局を考えることができ非常に勉強になった。そして読んでいてこれほど面白い本はなかなかないと思うぐらい面白かった。
 海部俊樹という男が首相になったのは1989年8月9日であるが、この男が首相になったということは明らかに日本の政治がそれまでとは違った方向に向かったことを意味していた。なぜなら五十五年体制以後の首相(=自民党総裁)は皆、派閥の総大将として派閥の力をバックにして権力の座についてきたのに、海部も、海部の前の宇野宗佑も派閥の総大将ではなかったからである。
 政治学が科学=サイエンスとして成立するかどうか疑わしいのは、原因を挙げようとすればいくらでも挙げられるのに、そのどれもが明確な合理性をもって説明することができないからである。かの陸奥宗光は「政治はアートなり。サイエンスにあらず」と言ったというが、まだ派閥全盛の中選挙区制時代に、派閥の長でもない海部が首相になった理由を合理的に説明できるかどうかはともかく、経緯を説明することはできよう。
 まず当時はリクルート事件の熱気がまだ生々しく残っていた。このリクルート事件の世論の沸騰たるや例えば最近の西松献金事件の比ではなく、そのリクルート事件で疑惑の的となった各派閥の長(安倍晋太郎宮沢喜一、渡部美智雄)は謹慎を余儀なくされた。そうすると残るはクリーンなイメージの若手ということになり、橋本龍太郎小沢一郎などの「昭和二ケタ世代」が挙げられるが、それでは「世代交代」を世間に印象付け、派閥の長たち「大正世代」には出番が回ってこなくなる危険性がある。そこで「大正世代」と「昭和二ケタ世代」の中間で、且つクリーン三木の伝統を引き継いだ河本派のホープ海部俊樹が選ばれたというのである。ここまではまあ、数百を超える政治本で耳にタコができるほど聞かされてきた話であって、ここからが本書の分析である。
 派閥の爛熟期は1972年頃の角福戦争から始まるとされる。保守本流吉田学校門下の「田中」「大平」と、反吉田の鳩山・岸の系譜に連なる「福田」の対決がまずあって、そこに「中曽根」「三木」が政局の状況を見極めながらどちらかの勢力に加わるという構図であった。この派閥抗争は激烈を極め、一つの党が首相指名で分裂したり、与党でありながら内閣不信任案に棄権したりするという醜い姿をさらけ出した。それを傍で見ていた次世代のリーダーたちは自分たちが振り回されてきたということもあってこれを反面教師として、ニューリーダーのトップを切って首相となった竹下登は「総主流派体制」を敷き、その結果「敵」を失った派閥は統制が効かなくなって派閥の長以外が総理・総裁になることに特に違和感を覚えなくなったのではないか…というのが本書の分析である。うーん、俺の考えだと「いや、総主流体制は見せかけで、本当は経世会竹下派)が各派を押さえ込むほどに力を持ったのだ」となるのだが、違うのかな。大体いくら「総主流体制」になったとはいえ選挙はあるのであって、中選挙区制で同じ自民党の人間と戦うのだからやはり頼りになるのは党より派閥ではないか。そうすると派閥の統制力が効かないわけがない、と思うのだが、どうなんでしょう。
 ちなみに海部内閣とは何の関係もないが、戦後政治のスーパースター・田中角栄について気になる文章があったのでこちらもどうぞ。俺はもちろん田中シンパであるが、事実はこのとおりなのだろう。
「芦田内閣が昭電疑獄で総辞職した。当然このあとの政権は、第一党の民主自由党総裁、吉田茂が引き継ぐものと思われた。ところがGHQ内の反吉田グループ(民政局=GS)と民主自由党反主流派が、ひそかに山崎猛幹事長の担ぎ出しを図った。この動きに日本民主党社会党の一部も加わったため、さすがの吉田も観念し、引退声明を党総務会で行う手はずも整えられていた。しかし総務会で、若き田中角栄が『いかに敗戦国といえどもアメリカの内政干渉に屈するな』と絶叫、この一言にわれに返った吉田は勇気を振り絞って反転攻勢に出たため、山崎首班工作は失敗。発足した第二次吉田内閣で田中はこの功績により法務政務次官に起用された、というのが田中シンパによって伝えられた、吉田と田中の出会い」
「ところがそもそも、この総務会には、田中は出席していなかった(あるいは出席できなかった)という証言がその後続出。『田中さんは若すぎて、総務じゃなかった。総務以外はその場にいなかった』と指摘したのが藤木光雄・元日本自由党事務局長。『その通り』と証言したのが、この時の総務、村上勇氏。さらに石田博英氏は、『まったくのウソ』と断定した(のちの新聞雑誌の各種特集号から)。
 決定打が吉田茂の三女で、秘書としても吉田につきっきりだった麻生和子さんの証言である。『おもしろいけど誤解を与えるんじゃないかしら。あの方は父が在任中、一度も会ったことさえないと思います』(フジテレビの特集番組)
 事実、当の吉田の『回想十年』などをみても、山崎事件のくだりには、こんな話は一行も出てこない」