平安朝の女と男/服藤早苗[中央公論社:中公新書]

平安朝の女と男―貴族と庶民の性と愛 (中公新書)

平安朝の女と男―貴族と庶民の性と愛 (中公新書)

 だから俺みたいな田舎者で男尊女卑で前時代的でオタクでしょうもない奴が「女性史」とか「女性学」関連の本を読んでもろくなことにならない。しか買ってしもたんやからとりあえず読まなあかんやろそうやろそしていわゆる感想というやつも書かなあかんやろというわけで本書について今から書きます。それにしてもこの本、読みにくいというか無味乾燥な学術的文章のお手本のオンパレードで頁をめくるのにも苦労したほどだったが、学術的なだけあって感情的な男性批判はほとんどないところは評価しよう。
 本書によれば、「現代の日本では男女平等意識が次第に高まりつつあるが、性愛関係ではいまだに『生物的に男の性は能動的で、女の性は受動的である』という性神話が根強い」らしい。そら男が入れて女は入れられるのだからそうだろうと俺なんかは思うのだが、その性神話がいつ頃始まったのかを探ることが女性史探求の第一歩なのである(という理解でよろしいですか)。
 例えば10世紀の初頭の作品「伊勢物語」にはこういう話がある。三人の息子がいる老女がいた。三人の息子の前で、母である女は「情があり誠実な男がほしい」と話し、息子は母の希望の男を捜して男に母と共寝を頼むのである。現代の感覚では子を持つ女は「母」であるべきで、「女」の顔を見せることはタブーであるが、この時代はそうでもなかったのである。ではいつから価値観の違いができたのか。そこで重要になってくるのが平安時代における「農村」から「都市」への発展という生活様式であって、農業生産を軸とする閉鎖的な共同体では「性交=出産=生産性の向上」として現代の我々の感覚では想像もつかないほどの大らかな性意識が保たれていたのに比べ、朝廷を中心とする貴族社会の発展、即ち農業生産から切り離された都市では「個」の意識が発達し、生産性の向上とは無縁な享楽としての性愛が意識されるようになった。するとどうなるか。「羞恥と儀礼とを知った人間は、性行為を人前で展開することはもちろん、性に関する言葉を話したり筆にすることを避けようとする。場所がらをわきまえず、そうしたことを口にする者は、礼に習わざる野人として軽蔑」されるのである。そしてそれは諸君が大好物とする男色についても言えるのであって、農村的共同体では「同性の性愛は出産を結果しないため、農村が求める生産や豊饒に結びつかず、タブーであった」が、享楽としての性愛を覚え、男女がおおっぴらに異性に性を求める機会が少なくなるに従って、男が男を求める現象も発生してくるのである(なぜ俺がそんな事を書かねばならんのだ)。
 では、そのように性愛の意識が変わっていったとして、いわゆる「家」制度、女が妻や母となって家の中に押し込められる制度はいつできたかというとこれも平安時代なのである。貴族社会が安定すると、天皇の母であったり摂関・大臣の妻というだけで高い地位に就く機会が増え、つまり母や妻という家族内の身分によって社会的・公的に認知されることが多くなった。そして次第に妻や母としての役割を果たさないで仕事をバリバリするような女は賎視されはじめ、あの紫式部でさえ「どうして男の皆さんはそんなに早く家に帰るのですか(家で待っている妻のためにそんなに早く帰るのですか)」と嫉妬交じりの愚痴をこぼし、清少納言もまた「平凡な結婚はするな、しかし経済的に裕福でそれなりに力のある人の妻になるのが理想的だ」と、婚活中の女のような事を言うようになるのである。元祖キャリアウーマンとも言える両者からして「家妻」への憧れを表明しているのだから問題は根は深いと言えよう(俺としてはどうでもいいが。どうでもいいよもう)。
 平安時代からはじまった「性愛」の意識の変化と家制度への移行はその後貴族社会から庶民社会へと流れて行き、次第に一夫一婦的単婚が社会に浸透すると、常に同居して生産や子育てを担い合う夫婦は華やかな貴族社会の享楽的な性愛とは違う持続的忍耐力を持ちやがて現代の我々の社会へとつながる。しかしながら女性学的にはそれでめでたしめでたしにはならないみたいですが、とにかく俺はもうここまで書いて力尽きてしまいましたのでシーユーアゲイン。