SFアドベンチャー 1987年12月号[徳間書店]


 孤高の読書青年である俺は今日も今日とてSFアドベンチャーを読みながら都会の暗い谷間でその陰鬱な自意識を慰めよう。あまり知られていないが俺は政局評論家でありラブコメ狂でありながらSFファンでもあるのであって、実はSFアドベンチャーのバックナンバーを全て揃えてみたいぐらいの意気込みなのであり、しかし三宮の超書店MANYOに行かないと買えないのでもう言い飽きたことだが神保町古本屋も大したことないじゃねえか、いやそれとも俺が知らないだけでSF専門の古本屋とかあるのかああ俺は友達がいないから全く情報が入ってこないのだああこうして深あい暗あい怖あいところで一人寂しく死んでいくのかおーいおいおい。
 で、本書についてはほぼ全編連載ものだったので少し読みにくかったが、それでも読み進めるうちに興奮していくのはSFという手法によって読者を楽しませようというサービス精神をこの雑誌に関わった作者や編集部が常に意識しているからであり、2011年現在の純文学の衰退(最も1987年当時から衰退していたが)、エンターテイメント小説の自己満足のただ難解な文章と意味不明の展開を描きさえすればOKという荒廃状態、を思うといい時代だったのだなあ携帯電話もインターネットもない時代なのになあと複雑な感情を抑えることができなかった。
 ところでSF長編と簡単に言うが、「SF」という手法を使って長編あるいは複数巻シリーズを繰り広げるというのは書き手のみならず読み手にとっても大変なことで、科学用語を駆使するハードSFならともかく、いわゆるヒロイック・ファンタジーや冒険SFや伝奇SFになると何となく読めてしまうものだからやたらと展開が大風呂敷になって登場人物が膨張して、読み進めるうちに物語がそれぞれ断絶してしまって最初と最後のつながりがまるでわからなくなってしまうことがよくある。本書で言うところの「不定エスパー/眉村卓」や「魔道神話/高千穂遥」がまさにそれで、やれネプトーダ連邦だエレスコブ家だドラゴンカンフーだと言われても確かにすごいことが起こっているのだろうがつまりそれでどうなったのです、と反発というわけでもないが不満を感じることも結構あります。もちろんそれは作品が悪いのではなく俺の読み方が悪い(作品世界に即座に没頭できない)のであるからそのあたりを今後磨いていく決意を新たにした次第であります。
 しかしながら「大風呂敷」は「壮大なストーリー」と紙一重であり、とにかく読者を作品世界に引き込まなければならない長編に至ってはドカンドカンと盛大な花火を打ち上げる荒々しさが必要で、そういう荒々しさがSFやミステリーに限らず昨今のエンターテイメント小説には欠けている気がするのであります。例えば「幽霊海戦/田中光二」では太平洋上に旧日本軍の幽霊船が出てきてアメリカ船を打ち破るというよくある(?)話が展開されるが、それに戸惑い翻弄される日米両軍や現地の人々の様子がダイナミックに展開され(どうも感覚的な表現になってしまうが)、読者はありきたりの話だとわかっていてもその作者の意気込みを感じて頁をめくる手を止めることができない。そこにあるのは何度も言うように強烈な「サービス精神」であり、その姿勢は啓蒙的な「SFマガジン」とは全く対極にあるもので、だから俺はSFアドベンチャーを買い続けているのである。
 SFは自由自在である。現代日本の奇妙な殺人事件に絡めることもできれば(「悪霊刑事/西村寿行」)、古代日本の「仏法」の持つ妖しさに組み合わせて読者を釘付けにでき(「延暦十三年のフランケンシュタイン山田正紀」)、宇宙を舞台に破天荒な生き方を追体験することもできる(「イル&クラムジー物語/大原まり子」)。無限大の想像力が作者にも編集者にも読者にも試されるのであり、一種の思考実験とさえ言えるのではないか。そういうものを読むことは、政治やラブコメといった非常に硬く閉ざされた世界でぬくぬくと暮らす俺にとって必要であり、また同じく閉鎖的な現在のエンターテイメント小説界に必要なはずである。今度また三宮の超書店MANYOに行って買うことにしよう(と書いてからしばらく経って、この店は閉鎖してしまった。嗚呼、俺は今後どこに買いに行けばいいのだ。情報求む)。