ドキュメント昭和6 潰え去ったシナリオ[角川書店]

ドキュメント昭和―世界への登場 (6)

ドキュメント昭和―世界への登場 (6)

 本書は以前紹介した明治維新から50年余りで世界の超大国にのし上った昭和日本の興亡を描く」シリーズの続編であり、今回は「日本経済史上最もドラスティックな政策」と言われる金解禁とは何だったのか、浜口首相・井上蔵相がどういう思惑と期待でそれを断行するに至ったか、そして当時の国際経済状況に鑑みてそれは世界にどういうインパクトを与えたかが経済史的な観点から克明に記されたものであり、政治史的な見方しかできない俺には大いに参考になった。
 金本位制の世界経済とは世界中が「金」に対して等しい価値を認めることで自国に流通する貨幣の価値を「金」によって判断する体制であり、その体制下では現在の管理通貨制度のように中央銀行が無制限に通貨を発行することはできず、自国が持っている金の量に見合った額の通貨しか発行できなくなるため世界共通の「金」によってそれぞれの通貨規模=経済規模がコントロールされ、世界経済が緊密に結びつくようになる制度であった。当時(昭和初期)の日本は金融恐慌は収まったとは言え依然として不景気が続き、鉄道拡張事業や軍備増強により財政赤字が膨らみ危機に瀕していた国家財政を前にして成立した浜口内閣はそこで金本位制への移行を目指すのである。
 浜口雄幸首相・井上準之助蔵相の考えていた金解禁政策(金本位制への移行)とは何か。金解禁を行うことになれば日本の物価は高いので輸出減・輸入増となって金が流出してそれに見合って通貨の発行額が減って日本に出回る通貨が減ってデフレとなり、競争力のある企業が生き残り(競争力のない企業は淘汰され)物価は安くなって金が日本に再び流入することによって日本経済は再建される…というもので、現在の我々の感覚で言えば非常に荒っぽいデフレ政策であった。しかし金解禁にかける政府の意気込みは相当なもので、デフレを遂行するために官僚の減俸や軍縮も率先して行い、国民も総選挙によって浜口・井上路線を支持している(最も最近の小泉構造改革と同じで、どこまでその政策を理解していたかは疑わしいが)。ところがタイミングの悪いことに日本が金解禁を決定する1ヶ月前にニューヨーク株式市場は大暴落し、世界同時不況の発生により日本は物価を下落させながらも世界全体で見ればなお割高となって輸出が伸びず、また当時世界最大の生産・輸出品目だった生糸はアメリカ恐慌の影響を受けて半値以下に下落してしまうのである。町には失業者があふれ、大学生の就職は三人に一人となって「大学は出たけれど」が流行語になり、野党・政友会は「暴風雨に向かって雨戸をあけた」として金本位制を断行した政府・民政党を攻撃、国民の不満を背景に右翼勢力が台頭して浜口首相は暴漢によって狙撃され、続く若槻内閣では金輸出再禁止の気勢を上げる政友会の動きに民政党内の分裂・閣内不一致により若槻内閣は8ヶ月で総辞職、続いて成立した犬養内閣の高橋是清蔵相は即日金輸出再禁止を決定、金本位制は昭和5年1月11日に始まり昭和6年12月13日に終わったのである。
 しかしながら本書は金解禁を批判するものではない。本書で繰り返し強調されているのは「金本位制」こそ1920年代の世界経済の潮流であり、日本はその潮流に乗るのがあまりにも遅すぎたということであって、そこには世界から孤立し戦争へ突き進んだ日本の問題点が既に潜んでいたのである。第一次世界大戦の賠償問題が一段落した1920年代において世界は国際協調の時代に入ろうとしていたのであり、「国際協調」と言えば「軍縮」であるが、そのための経済的な基盤として「金本位制」は不可欠であった。第一次大戦によって金本位制を停止していた各国は為替レートの不安定に悩まされ、まだ変動相場という為替の不安定さに対処するノウハウを持っていなかった世界経済を馴染みのある金本位制に戻し、安定した経済の下で軍縮を行うことが広く国際社会の合意事項だったのである。1919年のアメリカの金本位制復帰を皮切りに1923年オーストリア、1924年ドイツ、1925年イギリス・オランダと世界の主要国が金本位制に復帰する中で日本のみが金本位制復帰を拒んでいた。これは時の大蔵大臣にして日本で最初の国際金融家でもあった高橋是清が「日本の国力を考えればまだまだ金を蓄えておかねばならない」と考え、また政友会の方針である内需優先の積極政策(地方の鉄道事業拡大等)のためにはデフレは都合が悪かったからである。
 しかし金本位制が世界の潮流であったのは確かであって、民政党率いる浜口内閣の蔵相井上準之助(高橋より一世代若い)はむしろ積極的に国際化を推し進めて「東京は金融の中心として東洋のロンドンになるべきで、日本の経済は徹底的に国際化しなければならない」という姿勢であった。それは自然と政友会の内需優先・保護貿易主義ではなく民政党の国際協調路線と接近するのであり、浜口内閣での幣原外相による対英米強調外交路線と相乗効果を生んでこの時世界は日本に好意的な視線を向け始めている。だが日本が金解禁を実施したのは1930年1月とあまりにも遅過ぎたのであり、やがて世界恐慌による混乱に乗じてファシズム勢力が台頭し、各国が世界共通の通貨である「金」の下で協調することは二度となかった。
 戦前の日本経済には高橋是清(政友会)に代表される国内経済の基盤強化を第一とする思想と井上準之助民政党)のように外国と協調し日本を国際化させる思想が存在していたのであり、金解禁もその思想の対立状況の中で捉えなければならない。また「金解禁」による超不景気自体は日本を痛めつけたが、日本が世界の潮流である「金解禁」を断行したことは世界と協調していくことを知らしめるメッセージとして非常に重要な意味を持っていた。その事を無視して、ひたすら「金解禁が不況を招いた」という図式を日本人に植えつけた結果、日本はまた一つ国際社会から孤立する道を歩みことになったのである。繰り返すが、金解禁による失敗の本質は国際状況(1920年代の国際協調の時代)に対応する能力があまりにも遅すぎたことにあるのであって、そういう意味では別の意味で「タイミングが悪すぎた」と言えるのではないか。