官僚の敵

 インターネットの発達によって新聞やテレビを介さずにニュースと接することができ、社説・論説に対しても個人ブログなどで堂々と異議を唱えることができる時代になった。そのためマスコミは人々の関心を繋ぎ止めるために、興味をそそるような刺激的で露悪的でセンセーショナルな言葉を発するようになってきた。複雑に利害が絡む政治の問題から目をそらし、俗人的な面ばかりを強調して個人攻撃に終始し、これに同調した未熟な政治家たちによって予算委員会は「糾弾と疑惑究明の場」となって予算案の中身は何一つ検証されることなく成立する。かつて政権を取る気のなかった(選挙で過半数を獲得する候補者を擁立しなかった)社会党は唯一の活躍の場である予算委員会で華々しく政府・自民党を糾弾するのを常としたが、2010年の今もそれと大して変わらない光景が展開され暗澹たる気持ちになる。
 少なからぬ人たちがその実態を変えなければならないと思いつつもいつまでもそのような愚行が繰り返されるのはマスコミや政治に嫌悪を抱く人々(つまり大多数の国民)にとっては「予算案の中身の検証、議論」という地味な作業より「正義の味方が悪を追及する」式のやり取りを見たいからである。「事業仕分け」がその最たるものであるが、「事業仕分け」などと大々的に言わずとも本当に仕分けたいのであれば黙って予算を削減すればいい話であろう。忘れてはならないのは、官僚にとって「自分たちが積み上げた予算案が修正、削除される」ことはどんなことがあっても避けるべきで、予算とは全く関係のない話に終始して審議が終わってくれればこれほど都合の良いことはないということである。このようにしてマスコミと官僚の利害は一致しよう。
 臨時国会最中での柳田法務大臣の更迭の理由は「補正予算を滞りなく進めるため」であるが、要するに法相の首を差し出すから補正予算案の成立に協力してくれということで、まるで55年体制の生き写しのようであった。法相の首さえ差し出せば予算の中身(官僚によって作られた予算の中身)はとやかく言わず成立させろという民主党には呆れたが、それに引きずられる自民党にも落胆させられる。そのようにして与野党双方がダメージを受け、官僚の力だけが温存されるのである。
 言うまでもないことだが選挙によって選ばれた政治家たちは国民の味方であり、選挙の洗礼を浴びない身でありながら国家を動かそうとする官僚は国民の敵である。難しく考える必要はない。戦前の軍人たちが日本をどうしたかを考えればいい話である。そして官僚の常套手段はマスコミを使って国民と政治家を分断し、次いで政治家を分断することである。日本は三権分立で立法と行政は別個のものであるが、実際は国会審議の一挙手一投足に官僚が入り込み、不勉強な政治家を篭絡して自分たちが振付けるのである(「政権担当能力」のない民主党なら容易である)。となれば官僚勢力に立ち向かうにはどうすればいいか。それは大連立しかないであろう。与党と野党が力を合わせて国会から官僚を締め出し、官僚が独占する情報を引き出すより方法はない。もちろん二大政党制を目指す我が国においては邪道とも言えるが、「明治以来の官僚中心の国家が本当の国民主権国家」に脱皮するには我々が想像する以上の困難と混乱が伴うことを我々はひしひしと感じさせられたはずである。特に現在は衆議院参議院で「ねじれ」が起きている状態であり、大連立を結ぶ滅多にない機会でもある。
 3年前の福田首相・小沢代表による大連立が頓挫して小沢が辞任を表明した時、小沢は大連立の理由を「民主党にはまだまだ不安があるから」と言ったが、今思えばそれは正確な認識であった。もし大連立が成立していたならば民主党は官僚たちを相手にすることがいかに困難を極めるものであるか学習し、長年政権を握った自民党に官僚と対峙する際の知恵を教わることができたのかもしれない。戦前の政党政治は台頭する軍部に与野党が一致して立ち向かうどころか軍部になびいたことから崩壊し、やがて日本は破滅に追い込まれた。過去の教訓に学び、今こそ与野党が一致団結すべきであるというのがこの1年政治を見てきた俺の偽らざる認識である。