田中角栄の人を動かすスピーチ術/小林吉弥[講談社:講談社+α文庫]

田中角栄の人を動かすスピーチ術 (講談社プラスアルファ文庫)

田中角栄の人を動かすスピーチ術 (講談社プラスアルファ文庫)

 40歳以上の日本人はいまだに田中角栄について特別な感情を持っていて、マスコミによる嵐のような毀誉褒貶の最中にあっても田中の巧みなスピーチに日本人は魅了され、今も思い出話が絶えない。ダミ声と新潟弁から繰り広げられるユーモアとわかりやすい比喩、具体的な数字、聴衆の自尊心をくすぐり一体感を与え、夢を語り、自身のスキャンダルすらさりげなく笑い飛ばし、しめるべきところはきちんとしめるというスピーチは常人にはとても真似できない見事なものであったという。本書はそんな田中角栄の数々の名スピーチを活字にまとめたものであり、肩の力を抜いて読めるライトな政治物を探している人ならぴったりのものであろう。もちろん活字では田中スピーチの特色である「ダミ声」も「小声と大声、浪花節と怒声の巧みな使い分け」も伝わってこないが、日本にこんな面白い政治家がいたのかと驚かされよう。
 ちなみに本書では「田中スピーチを参考にすれば、あなたのスピーチ力もみるみる上達!」云々の甘い言葉が投げかけられているが、そんなにうまくいくわけはない。本書でも最後の方に書かれているが、田中のスピーチ力や交渉術はやはり若い時の苦労や「一度会った人の顔と名前は忘れない」という驚異的な記憶力や小学校卒ながら東大卒の官僚がひしめく大蔵省のトップを務めた実績、そしてロッキード事件で日本中から目の敵にされながらも孤軍奮闘してきた生き様によって築き上げられたものであって、むしろスピーチ力は日々の生活の中でいかに努力して生きてきたかという「人間力」によって左右されるのである。
    
「私が田中角栄であります!ご存知のとおり、私は自分のためにすることがいっぱいある(ロッキード裁判のこと)!しかし、そうも言っておれないっ。
 みなさんっ。東京都は日本人の顔なんです。田舎ほど自民党の勢力が強い。日本人のなかで、一番、親から面倒を見てもらって、東京などでいい職場につき、車、テレビ、いいマンションに恵まれている人が、自民党に一番投票しないっ。そんなバカなことがあるかっ。
 社会的恩恵を一番受けている人が、自民党に反対するのは間違っています。この会場にも新聞記者がいるが、大学出て新聞記者にでもなると、すぐ自民党はいかんと、こうなる。体制に反対の声をあげんと、おかしいのではないかと思っとる!
 これは錯覚だねえ。油だらけになって、朝から晩まで働いている諸君は、自民党に入れてくれるんだ。何が大学かと言いたいよ」
「道路問題にしても、なぜ狭いとか、専門家はいろいろ結論が出ないでしょう。道路がどれだけの広さを必要とするかを算出するには、実際に車を置き、オートバイを置き、下水幅をとり、歩道を歩いてみりゃいいんです。どんな本を読むより、自分でそれを置いてみるのが一番早道なんだ。地価の問題にしても、政府が悪い、自民党が悪いと言うが、建物を二階から六階にすれば、地価は三分の一に下がったことになる。十階にすれば、五分の一に下がったことになる。じつに簡単なことなんです」
社会党のように、無防備・無抵抗・中立なんてダメだ。皆さんの家に強盗が入ったらどうする?父ちゃんが壁の方を向いて無防備・無抵抗・中立だなんて言っていたらどうする?家族を守る力がないと、奥さんは(実家に)帰ってしまうわねえ」
「勤労青少年と言われる人は15歳から25歳と言われるわけでありまして、この15歳から25歳までの間の人たちは963万人であります(昭和48年当時)。この963万人という若い日本の勤労青少年、この人たちが日本経済の中心となり、またこれからも中心となっていかなければならないわけであります。私は今日この全国勤労青少年会館にまいりますまでの僅かな時間、車の中でかつて勤労青少年であった当時の自分のことを思い起こしてまいりました。昭和9年の春、初めて東京に出てきたわけでありますから、ちょうど数え40年になるわけであります。昼間働きながら夜学に通ったことがあります。私はまたとできなかった人生の大きな勉強をそこでしたと、しみじみたる思いであります。
 ただ単に青少年時代を学生として、また思うばかりはばたける、好きなことをし放題にできることが楽しいかというと、私は必ずしもそうではないと思うのであります。
 お互い一人一人みな生まれ育つ環境も違いますから、色々な社会に色々な生き方をして育ってくるわけでありますが、私はそのなかで勤労というものがいかに大切なものであろうか、勤労ということを知らないで育った人は不幸だと思います。本当に勤労をしながら育った人のなかには、人生に対する思いやりもあるし、人生を素直に見つめる目ができてまいりますし、我が身に比べて人を見る立場にもなりうるわけでありまして、私はそれを大きな教育だと、また教育であったと考えておるのであります。
 本当に病気をしてみなければ病気の苦しみがわからないように、本当に貧乏しなければ貧乏の苦しみはわからない、と言う人がありますが、勤労しない人が、勤労の価値を論ずることはできません。勤労をしない人がどうして勤労の価値を評価することができるのでしょうか。私は今、本当に政治の責任の立場に立って考えます時に、勤労ということは何か、勤労というものが本当にどんなに正しく、どんなに必要であるということが、このごろ論じられることよりも、勤労は生きるための一つの手段でしかないというような考え方が、このごろ充満しつつあるような気がいたします。もし、あるとすれば、それは政治の責任でありましょう。
 勤労というものは自分たちの生活だけでなく、人類の歴史を永遠に支えるために不可欠のものであります。勤労なくしてどうして人類の向上があるでありましょう。だから勤労青少年には、自らの環境が、環境でやむを得ないものであるというような憐憫の情は禁物であります。学校へ入るのも、勉強するのも、それは自らに適合した勤労をして、より効率的、合理的なその人に適した職場を与えられた時に、能力を発揮できるように勉強するのだ。そしてその結果、自らのためにもそしてそれが社会のためにも、人類のためにも絶対不可欠のものなんだ。
 お互いは、忽然としてここに現れたのではありません。何千年、何万年、何十万年、何億年の歴史の上にあります。我々の生命もまた、久遠に続くのであります。無限に続く人類の生命のなかの一コマ一コマをつないでいるのであります。我々の祖先が、人類の生命をつなぐために、たゆまざる努力をしたように、我々も後代の生命のために、たゆまない努力を続ける義務があるのであります。私はその意味で、勤労青少年に自信を持ちなさい、そして自らの置かれている立場にほのかな誇りと、感謝を覚えるべきだと言いたいのであります。
(中略)多感な青少年がとまどうようなことがあったり、そして自分の勤労というものに対して自信を失う時には、国家や民族の危機と考えなければならないのであります。青少年に明朗闊達に、この太陽の広場のごとき気持ちで自信を持って生きてもらいたい。そのよりどころとしてこの施設が、青少年のためになることを心から祈りたいのであります」