戦後アメリカ外交史/佐々木卓也・編[有斐閣アルマ]

戦後アメリカ外交史 (有斐閣アルマ)

戦後アメリカ外交史 (有斐閣アルマ)

 言うまでもないが、アメリカは世界で唯一の超大国である。軍事的にも経済的にも世界はアメリカの一挙手一投足によって影響を受けるため、世界中の国々はアメリカから一瞬たりとも目を離さず観察しなければならずアメリカが国内で何か行動を起こせば諸外国も一斉に動き出す。ではそのアメリカが国外に向かって「外交」活動を展開した時、世界はどう動いてきたのか。本書では第二次大戦後のアメリカの外交史を簡潔平易に、しかしそれぞれの事象の裏側にある複雑な事情を漏らすことなく解説した極めてレベルの高いものであった。特に俺のような政治全般の基本的理解はあるものの更に踏み込んだ政治各論への理解を欲する読者には刺激的で有益であり、さすがは有斐閣である。
 当り前過ぎて忘れがちであるが日本は議院内閣制の国でアメリカは大統領制の国である。従ってアメリカ政治においては何よりも大統領のビジョン、大衆へのアピール、そしてリーダーシップが重要視される。また日本の内閣では大臣は基本的に与党の国会議員より選ばなければならないが、アメリカの大臣(長官)にその必要はなく大統領の友人やスタッフや優れた有識者を自由に選ぶことができ、且つ基本的に議会に拘束されずに行政権を行使することができる(もちろん議会からお呼びがかかれば出向かなければならない)。このようにしてアメリカ大統領と国務長官外務大臣)は実に広く大きく外交活動を展開することができる。考えてみればこれも当然の話で、アメリカ外交のほとんど全てがアメリカ国内のみならず国外に巨大な影響をもたらすのであるから、日本のように絶えず国会に拘束されたり1〜2年で交代されては国際政治が機能不全に陥ってしまうであろう。
 アメリカ外交は建国以来常に二つの価値観の狭間で行われていて、一つは「自由、民主主義、人権、平和」といったアメリカ建国の価値観に基づく理想主義的な外交姿勢であり、もう一つはヨーロッパ大陸諸国のパワーバランスや同盟関係を重視する現実的な外交姿勢である。歴代の大統領たちはそのどちらにも傾斜しないよう細心の注意を払いながら世界一の大国として国際政治を取り仕切ってきたが、その内実は磐石にはほど遠い波乱に満ちたものであったことがわかる。
 まずアメリカはヒトラー率いるナチスドイツや軍国主義化した日本を倒すために、スターリン率いるソ連と手を結び、ソ連の影響力を第二次大戦前とは比べ物にならないほど強力なものにしてしまうのであった。ドイツや日本を倒すための現実的な選択肢としてソ連という共産党国家と手を組んだことがその後の冷戦体制を作り、第二次大戦により疲弊した国々が次々と共産主義陣営に組み込まれていくなかで、1947年3月12日、トルーマン大統領は世界を善と悪に二分させる決定的な演説を行うこととなった。
「ほとんどすべての国が、二つの生活様式のいずれか一方を選ぶよう迫られている。一方の生活様式は多数者の意思に基づき、自由な諸制度、代議政体、自由選挙、個人の自由の保障、言論・信仰の自由、政治的抑圧からの自由によって特徴づけられている。第二の生活様式は、多数者に対して強制される少数者の意思に基づく。それは恐怖と圧制、出版と放送の規制、形だけの選挙、そして個人の自由の抑圧に依存している。私は、武装した少数派または外部の圧力による征服の企てに抵抗している自由な諸国民を支援することが、合衆国の政策でなければならないと信じる」。
 ソ連共産主義に立ち向かう「決意」を述べたこの演説は、もし世界のどこかで共産主義が「企て」るようなことがあれば、それは自由主義陣営にとっての脅威であり、よってアメリカは世界のあらゆる地域に介入することが必要であるとの認識をアメリカ国内に植えつけることとなった。「理想主義的な外交」が「共産主義に断固立ち向かう」こととなり、やがて狂信的な「赤狩り」へと発展するのに時間はかからなかった。
 トルーマンの後に大統領となったのは共和党アイゼンハワーである。ノルマンディー上陸作戦の指揮をとった英雄は当然共産主義との対決姿勢を前面に押し出すが、一方で彼は過大な国防予算の支出による赤字財政を解決する必要も感じており、新しい安全保障戦略を打ち出す。そこには「負担可能な最小のコストで必要な軍事力・非軍事力」を維持するために「大量の核能力」を保持すること、核兵器を他の兵器と同じように「行使可能な」ものとみなすことが謳われていた。この新戦略により朝鮮戦争時350万人だった通常兵力を1960年までに250万人に絞り込むなどして財政状況は改善するが、代わりに核爆弾数は1952年841発だったものが1960年には1万8638発に激増、米ソによる「核軍拡競争」時代がはじまり、この「核兵器の所有が均衡をもたらす」という恐怖と平和の原則は次のケネディ大統領時代の「キューバ危機」によってもろくも崩れ去り、ケネディは暗殺されフルシチョフソ連首相)も失脚し次第に米ソはデタント(緊張緩和)の時代を迎えるのである。
 ベトナム戦争の泥沼化・公民権運動の盛り上がりとキング牧師の暗殺によってアメリカが「正義の国」としての自信を喪失していくなか、アメリカ外交を現実主義に転換させたのがニクソン大統領でありキッシンジャー大統領補佐官である。特にキッシンジャーイデオロギー判断による外交こそがベトナム戦争の泥沼化を招いたとして、「ワシントンとモスクワと北京の間に微妙な三角関係」を構築することをアメリカ外交の方針とする。もちろん共和党保守派や議会に一定の勢力を持つ人権重視派からの反対はあったが、対ソ連に対するデタントや米中和解を成し遂げることによって国際政治を新たな方向へ、もちろん常にアメリカが主導権を握る形で「ベトナム戦争によって失敗だったことが明らかになった」アメリカ外交を修復していくのである。
 ニクソンキッシンジャー外交の特徴は、例えばソ連との交渉において共産主義体制や人権抑圧の問題はほとんど問題にしなかったことである。それこそが現実主義外交であるが、一方でアメリカのもう一つの外交指針である「自由や人権」を重視する理想主義的外交についてニクソンたちがほとんど配慮しなかったことで国内に多大な反発を呼び、時同じくしてウォーターゲート事件アメリカ国中を燎原の如く包み込み、再びアメリカ外交はその針路を見失うこになるのである。
 ニクソン、フォード、カーターといった70年代のアメリカ外交の結果がイラン革命であり、ソ連アフガニスタン侵攻であった。親米的なイラン国王をアメリカは長く援助してきたが、国王派からの弾圧に苦しむ反米イスラム革命勢力はその国王と国王を支援するアメリカと敵対することを決意し、デタントにより関係改善を期待していたソ連アフガニスタンに侵攻したことでアメリカは再び強硬な姿勢に転ずることになった。「デタントの終焉」と「新冷戦」時代の到来である。そこへ現れたのがレーガンであった。
 …と、まあ書いても書いてもキリがないのでこのへんにしますが、戦後わずか半世紀だけでとにかく大変に複雑且つ広範な問題がアメリカを襲っていることだけは確かで、それでも冷戦時代は基本的に「米・ソの対立」を基軸にしながら整理できるから何とか理解できるが、冷戦後のクリントン、そして9・11のブッシュの時代になると(本書は2006年1月発行)グローバル化する経済からはじまってテロ・環境・民族紛争・麻薬といった新しい脅威への戦略的対応をせまられ、巨大化する中国やロシア、そして東アジアで強固な同盟関係を結ぶ日本との関係をどうするかをめぐって様々な利害と難題が山積して本当に出口の見えない状態が続き、今この瞬間にもアメリカの外交当局は動いているのである。いやあ、政治って本当に面白いですねえ。