続・日本のゆくえ

 以前「選挙で選ばれた政治家」と「東大卒の勉強ができる頭の良い官僚たち」のどちらに国を統治してもらいたいかと書き、当然「選挙で選ばれた政治家」であると書いたが、それは大多数の日本人が「選挙に選ばれようが選ばれまいが、頭が良くて金に清潔でマスコミ受けする人がいい」と思っていることをわかった上で書いたのである。そのような人間に熾烈な国際政治を渡り歩くことなどできるわけがないが、建前と現実離れした正義を好物とするマスコミによって日本人の政治意識は今やそこまで退化してしまっているのである。自らが選んだ首相や政権を罵倒することは結局自分たちの選択を罵倒することであって、それを認識した上でなお罵倒するならともかく、無自覚に自分たちの思う通りにいかなければすぐに文句を言うのであれば幼児に等しい。
 よく「投票したくても投票したい政党がない。民主も自民もいやだ」という声を聞く。なぜなら「民主も自民も理念もなければ政策体系もない」からだという。しかし理念や政策体系が本当に政治家に必要かと言えばそうではない。民主だろうが自民だろうが官僚組織への「事業仕分け」的なものは行われなければならないし、外交においても日米同盟一辺倒から中国やインドを重視することになるだろうし、どうあがいたところで経済のグローバル化は進むのである。問題はいかにして官僚の抵抗を抑えるかであり、アメリカと中国の両者と友好的に付き合っていくかであり、グローバル化する経済環境の中でどうやって日本企業を守っていくかである。いずれも相当の利害が渦巻き、敵が味方になり味方が敵になるルール無用の戦いとなる。いくら理念や政策を格調高く謳ったところでそれらに対処できなければ国民の生活は破壊されよう。重要なことは、どの政治家が敵の攻撃を防ぎ、飯を食わしてくれるかである。それを否定したところからマスコミの恐ろしいまでの幼稚化が始まっている。
 例えば「事業仕分け」がある。国民にとっては今まで旨い汁を吸っていた官僚たちが一方的にやられるのを見て気持ちいいだろうが、所詮は他人事である。当事者にはたまったものではない。彼らにも家族や生活があり、それらを守るために死に物狂いの攻防に出る。その「官」による「政」への攻撃とはマスコミへのリークである。日本のマスコミ、特に新聞社にとって重要なのは「誰がこう言った、誰がこう考えている」という瞬間的な事実であって、その背景や歴史的意義ではない。ただ情報をもらえればそれを右から左に流すだけで、どうしてそんなことで商売が成立するのか正直なところよくわからないが、それによって自分たちが情報戦に組み込まれていることにいつまでも気付かず、ただ瞬間瞬間のトピックスだけを垂れ流すだけだからインターネットの無料のニュース速報で十分ということになるのである。
 話がそれたが、マスコミを使ってただ瞬間的に国民の反発を暴騰させて政治家たちの身動きを取れないようにするという常套手段の最も派手なパターンが小沢の政治団体をめぐる事件であろう。マスコミを経由した検察の小沢潰しはついに検察審査会までも動かしたのであり、これによってまたしても小沢は参議院選挙に力を注ぐことができなくなった。東京地検特捜部が不起訴と決定したものをもう一度調べて起訴するなどどう考えても不可能のはずだが、起訴できるか否か、或いは有罪か無罪かはどうでもよい。ただ参院選の妨害ができればいいのである。検察は選挙で民意を得た者を引きずり下ろそうとして、今また参議院選挙に影響を与えようとしているのである。歴史は繰り返す。戦前においてマスコミが軍部の暴走を止めるどころかその軍部と手を握って政党勢力を追い出そうとした光景と、現在の検察と検察の後押しをするマスコミに一体どんな違いがあるのだろうか。
 野田財務副大臣民主党と小沢の関係を「『モーニング娘』に天童よしみが入ったようなものだ」と言ったと聞いて俺は思わず笑ってしまったが、それぐらい現在の小沢の状況は笑いたくても笑えない不安定なものである。田中角栄以来、検察や官僚はマスコミを使って常に自分たちの敵を「世論」という錦の御旗のもとに倒してきた。だが世論は「間違える」。そのために間接民主制が古代ギリシアの時代から存在するのである。ところが小泉政権以来世論と支持率が常に政治の最優先事項とされ、現在の政治状況はますます官僚の術中深くはまっていくようである。ただその場限りの世論のために政治家はパフォーマンスに終始して何もかもを官僚に丸投げするばかりである。そしてその実態を正確に認識しているのは小沢だけであろう。小沢が勝つか、検察が勝つか、「日本のゆくえ」は今やこの両者の戦いによって左右されようとしているのである。