佃島ふたり書房/出久根達郎[講談社]

佃島ふたり書房

佃島ふたり書房

 こういうことをされると困るのだ。
 初老の男と、高校を卒業したばかりのうら若き女の二人がこの小説の主役で、男にとって女は亡き親友の娘であり、古本屋を営む初老男は自身の店を高校を卒業したばかりの女に託し、その女がまた男勝りの言いたいことをはっきり言う姉御肌なのであるが男はこの女をいっぱしの古本屋店主にすべく暖かく見守るという、どこかで聞いたことのある筋書きの小説が本書だが、女を淫と欲の対象としてしか見れない俺のような27歳の滾る男にとってこのような「初老の男と若い女」ものが一番苦手なのだ。もうアッチは役に立たなくなったがそれでも若い奴に負けるのは癪だからとこのような精神的優越の何とかを持ち出してまだまだ若い奴の思い通りにはさせんぞほれこの若い女に手取り足取り教えてやるわいこっちには幾多の経験というやつがあるのだからなという若者への憎悪がぷんぷん匂ってしまって読みにくいの何の。まあ冗談半分本気半分で言っとるんですがね(つまり半分は本気)。
 古本屋という世界があって、本を知り本を愛し、本によって経済活動を行い生計を立てるという本と共に生きる人たちの世界がある。彼らは本に魅せられ、人生の様々な岐路に立った時に本によって救われ、或いは泥沼にはまりこんでゆくのである。本書は最初と最後の章以外はこの初老男のこれまでの半生が展開され、明治末期から戦後までの、社会主義者等を「主義者」と呼んで危険視し迫害し、その「主義者」達が読む本が「スイチャブ」(社会主義等の危険思想の本)と呼ばれて密かに古本屋業界で取引が行われていたという歴史と、古本屋業界で生きようとする初老男(の若い頃)の数奇な運命が絡み合うのであるが、そこには必ず「本」という静かなようで騒がしいような冷徹なようで温かみがあるようなもう一人の主人公が不思議に存在感を発揮して読者を奇妙な世界に連れ込むのであった。つまり俺や諸君のような「『本』に対して人一倍強い思い入れを持っている」者であればあるほど本書は面白いというのが何とも憎たらしい。
 作者については古本屋の店主であること以外よく知らないが(昔「本の雑誌」の特集で作者のインタビューが載っていたのを覚えているぐらいか)、さりげなく挿入される本や古本屋に対する言葉が暖かみがあるのに切れ味鋭く非常に心地よかった。名文というのはそういうものではないか。
「古本屋さんという商いは、よその物売りの数倍、商品に愛情をもたなくてはいけませんよ。店主の本への思い入れの深さが、客を呼ぶんです。客は本の身内ですからね。本を邪険に扱う店には寄りつかない。それと、売れなくても店は開けること。本が窒息するからね。本は生きものだから。いや本当。ためしに話しかけてごらんなさい。顔が輝きます」
「いや、だれもはなから知っちゃいない。勉強ですよ。こうして人がどんな本を仕入れているかを、横目で観察しながら勉強するんです。人が目の色かえて買うからには、その商品には何かがある。数字なぞ覚えなくていい。相場にとらわれると本質を見誤る恐れがある。第一、古本屋の仕事が楽しくなくなる。もうけた損したは、ひとまず措いて、本に親しむこと、本を楽しむこと、本をいつくしむことです」
「商売の世界で信用を得る第一は、人品骨柄でなく、金に糸目をつけない、これに尽きる。けちくさい商人(商取引)はうさんがられ鼻であしらわれる。金が、すべてなのだ」
「お前は、やりたいことを信念をもって続けるがよい。正しいか正しくないことかは、浮世の評価ぞ。ひとつことをつら抜く一念こそが、現世の正義ぞ」
 本、この得体の知れない、妖しい、無限の力を秘めた、しかし優しい存在に対して、我々人間はただ人生に翻弄されるだけのようだ。そうして本の持主が死んで古本屋で買った人が死んでもその本は捨てられたり焼かれたりしない限りどこまでも生き続けよう。本書の舞台でもある古本屋「ふたり書房」の主人が明治末期から戦後を生き抜いた初老男から昭和二十年生まれの若き女に変わったように。まさにこの世の不思議というもので、俺のように物心ついた時からBOOKOFF等に代表される大型古本屋に慣れ親しんだ者にとっては大げさではなく「近寄り難い存在」であった「古本屋」が、本書を読むことで数十年来の友人のようなとても親しみのあるものに思えてきた。今度神保町に行く時は(本書は神保町の古書モールで買ったものである)本書を読み直してから行くことにしようかな。