「サンデープロジェクト」の終了とインターネット政治の不安

 「サンデープロジェクト」が終わるというニュースを聞いた時、にわかには信じられなかった。ニュース番組は星の数ほどあるが、サンデープロジェクトというのは「(田原総一朗が死なない限り)終わるわけがない、終わってはいけない」番組であると思っていたからで、本当に終わるということがわかってもしばらく半信半疑であった。サンプロだけは何が何でも続けなければいけないのではないか。サンプロを終わらせて、一体どうするのだろうか。
 よく田原のことを「二者択一で相手を追い詰める」「物事を単純化して話を進めようとする」と批判する声を聞くが、少しでも田原の著作を読めば田原が本当に「二者択一しか頭になく」、「物事を単純化して考える」ような人間ではないことはわかるはずである。田原はわざと二者択一で相手にせまり、物事を単純化して政治家に問うているのである。そうしなければ政治家の本音に迫れないからである。
 政治家にとってテレビは格好の宣伝材料である。金がかからず、プレッシャーを与える選挙民もおらず、実行する気のない政策や思ってもいない理念を口当たりのいい言葉で包んで垂れ流せばいいだけなのだから、これほど便利なものはない。報道番組には常にそのような「テレビを利用しようとする政治家」と、利用されまいとする番組側の緊迫感が漂うが、サンプロ以外の「報道番組」にそのような緊迫感はない。「テレビを利用しようとする政治家」の話を黙って聞くか、その場で政治家に反論する勇気がなく後日VTRでその場面を見ながら呑気に「やっぱり矛盾してますねえ」と言うだけである。
 例えば消費税について、いつも田原は「消費税増税は不可避だ。何%上げるのか、いつ上げるのか」と直截的に問い、政治家は「税制全体のバランスや景気の動向、あるいは財政再建の状況を鑑みて総合的に判断する」と答える。少なからぬ視聴者(あるいは田原に批判的な人)も「この政治家の言う通り、消費税は税制や景気などの全体的な視点で考えるべきで、上げるか上げないかだけを議論しても意味がない」と思うだろう。しかしほとんどの政治家はそういう口当たりのいい言葉で逃げて時間稼ぎをしているだけで、結局消費税という極めて国家的な問題を先送りしているだけなのである。そうやって時間だけが無為に消費されていくのを田原は21年間見てきたのであり、だからこそ二元論でとにかく政治家に質問をぶつけていったのである。その田原の苦心を10年前ならば誰もが理解していたはずだが、今は誰も理解しようとしなくなった。だからテレビ局はサンプロを終了させようと判断したのであろう。
 世はインターネット時代である。政治家たちはホームページやブログ、或いはツイッターから直接国民に語りかけることができ、一昔前のようにサンプロを含むテレビ報道番組からしか国民にアピールできないことはなくなった。しかしブログやツイッターから政治家たちが本音を言うとは限らない。いや、言うわけがない。むしろ田原のように反論を台風のように浴びせる者がいない分、政治家たちはこれまで以上に口当たりのいい言葉を並べて国民を騙そうとするだろう。現実離れした理想論を好み、討論慣れしていない一般国民を騙すなど政治家にとっては朝飯前である。
 海千山千の政治家と互角に対することができるのはただ原稿を読むだけのアナウンサーや権力闘争のケの字も知らぬタレントではなく、田原を含めたごく一握りのジャーナリスト達だけである。その中でも田原は何事も恐れぬ突破力と「常識を疑い、タブーに挑戦する」姿勢を貫く貴重な存在であった。だがインターネット上には田原を誹謗中傷する声が轟音のように鳴り響いていた。どうしてかは正直なところよくわからないが、結局はそれがサンプロ終了の引き金になったはずである。しかし繰り返すが、サンプロを終わらせて一体何が残るのだろうか。のらりくらりと言い逃れる政治家を逃がせまいと真剣勝負を挑む番組が他にあるのだろうか。幸いなことにBSで「田原の討論番組」は残るらしいが、俺はどうも釈然としない。サンプロの終了はこの国の政治にとって良いことではないという不安が募るばかりである。