臨死体験(上・下)/立花隆[文藝春秋:文春文庫]

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈下〉 (文春文庫)

臨死体験〈下〉 (文春文庫)

 臨死体験というものがある。死の淵から生還した人が体験するもので、「お花畑を見た」「川を越えた向こうに、死んでしまった親しい人が手を振っていた」「自分が手術されている様子を、上から浮かび上がって見た」等、誰でも一度は聞いたことがある。そしてこれをもって「死後の世界が存在する」と言う人々が存在することから、常にオカルト的な怪しい匂いがつきまとっていた。だが現実に臨死体験したと言う人はあまりにも多く、手術等で意識が全くないにもかかわらずその時の状況を詳細に記憶している(浮かび上がって上から自分の手術の様子が見えた)ケースも世界中から報告されているのだから、とにかく何かとんでもないことが起こっているとして作者は世界中の臨死体験研究者と会い、話を聞き、戸惑い疑いながらこの謎に挑むのである。その追いかける姿がまた面白い。本書ほど、高度な知的好奇心を持つ作者の本領が遺憾なく発揮されているものはないのではないか。
 臨死体験をめぐる研究者たちの説は二つに分けられる。一つは現実体験説、即ち現実に「死後の世界」というべき高次元の世界があり、死んで肉体は滅びるが魂はその高次元の世界へ導かれるというもので、オカルトと紙一重の考え方である。「臨死体験をした」という患者に接した医療関係の研究者がこの説を支持しているが、それにしては個人差や文化によって体験そのものが違うことに疑問が残ってしまう。もし死後の世界というものがあるなら、日本人は「あの世とこの世の川」を渡るのにアメリカ人はそのような川を渡らず、「ただひたすら暖かくて優しく、そして偉大な光に包まれ」、日本人にはそのような体験はほとんどないのはどう考えてもおかしい。
 もう一つの説が脳内現象説である。生命の危機に陥った時には脳の中の脳血流が低下し、脳全体が低酸素状態になると脳血管の収縮が起こり、それが各種神経伝達物質や神経プチペドの放出となって感覚的変化や心理的変化が起こることが脳科学によって明らかになっている。例えば「エンドルフィン」という脳内物質の放出によって人は痛みの消失や多幸感を生み出すという。また「今までの人生で経験したことが全て映画のように展開される」というパノラマ回顧現象も、側頭葉の辺縁系にある記憶検索装置が機能不全状態になることによって起こる可能性が高いということである。これはなかなか説得力がある。所詮人間の活動は全て脳によって司られており、且つその大部分が未解明なのだから、臨死体験のような現象が起こっても不思議ではないのである。
 しかし今度は「では、なぜ脳はそのような反応をするのか」ということが問題になるが、残念ながら我々は脳の働きについてはほとんど知り得ていないらしいのである。視覚一つ取っても脳の働きは膨大で、レンズで外界をフィルムの上に写し取るような客観的な行為ではなく、眼球の水晶体のレンズ作用によって網膜の上に光点の集合として写し取られた後、網膜で電気信号に変えられ、複雑な信号処理過程によって脳に運ばれる。そしてその電気信号の処理方式を変えれば世界はいとも簡単に違って見える。だから臨死体験者が言う「上から自分を見下ろした」というのは、単に視覚の電気信号処理が通常とは違った処理方式を辿り、そこに脳が勝手にイメージをつけた結果そういう画像が見えたに過ぎないかもしれないのである。しかしこのあたりになると脳科学の最先端でも解明できず、実は書いている俺もよくわからない。だって俺文系やしなあ。
 脳科学、と一口に言うが、それは所詮視覚系を構成するシステムはどういうものであるかというような瑣末なものでしかなく、「人間の意識」や「自己という思惟の主体、情動の主体」がどういうものであるかというのはまるでわかっていないのである。わかるのはどうやってものを見てどうやって手足を動かしているかでしかない。ということは脳内現象説が正しいとも言えない。脳内現象とは何かがわかっていないからである。
 こんなことを言ってしまうと身も蓋もないが、人間の営みはその大部分が謎なのである。レベルの低い話だが異性に一目惚れしたり人には言えない変態的なフェティシズムに快楽を感じるのはどう考えても合理的に説明できるものではない。どうやら「臨死体験」もこの部類に入るらしい、というのが作者の結論である。もちろんそうは言っても作者も俺もその謎にこれからも挑んでいくのだが。
 「いずれの説が正しいにしろ、今からどんなに調査研究を重ねても、この問題に関して、こちらが絶対的に正しいというような答えが出るはずがない。少なくとも私が死ぬ前に答えが出るはずがない。だから、いずれにしても、私は決定的な答えを持たないまま、そう遠くない将来に、自分の死と出会わなければならないわけである。そのとき、いずれにしろ、どちらが正しいのかは身をもって知ることができるわけである。そのことに関して、今からいくら思い悩んだとしても、別の選択ができるわけではない。それなら、どちらが正しいかは、そのときのお楽しみとしてとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使った方が利口だと思うようになったのである」。